国を害するテロリストたちと戦うため、薬物投与され機械改造された少女たちと「兄」の役割を与えられた男たちが、銃弾が乱れ飛ぶ架空のイタリアで戦いつづけるという物語は、あまりにも同人誌的というか、ロリータ・コンプレックスの夢じみていると思ったものだ。
じっさい、途中まで『GUNSLINGER GIRL』はそれ以上の作品とは思えなかった。甘ったるいセンチメンタリズムと加虐趣味のほか、特別に見どころがある作品とも思われなかった。
しかし、話が中盤に至ったあたりから、作家の表現力は奇跡のように向上し始める。ぼくには具体的にどこがどう上手くなったのか、くわしくはわからないが、圧倒的に画力が増したことはたしかだ。
ひとりひとりのキャラクターもよりリアルタッチになっていくのだが、それ以上に背景の描写が濃密になった印象が強い。
あるいは有能なスタッフがひとり入ったとか、そういうところに原因があるのかもしれないが、とにかく『GUNSLINGER GIRL』は中盤を過ぎて一気に変貌し始める。
あたかも作品のなかから新しい作品が生まれ落ちたかのように、作品そのものがドラスティックに生まれ変わってゆくのだ。それと並行して、物語もいままでにない深みを見せるようになる。
初め、義体少女たちと兄(フラテッロ)の関係は、ひたすらにセンチメンタルで先が見えないオタク好みの悲劇に過ぎなかったはずだ。
しかし、話が進展していくにつれ、作家は「希望」を模索しだす。このすべての未来が閉ざされたかにすら見える世界でなお、雲間から差し込む一条の光のようにかがやく希望。それをこそ、作家は追い求めてゆくのである。
そもそも長くても数年で寿命を迎える義体少女たちに未来はない。彼女たちの進む道はすべてあらかじめ潰されている。しかし、その苦しみ、その哀しみと痛みは、彼女たち一身を超えて、「次の世代」へとつながってゆく。
この「次の世代」の物語を構想することによって、初めて、この物語ははてしなく続く絶望と苦悩の堂々巡りからの出口を見いだすことができた。そこで初めて『GUNSLINGER GIRL』は「少女と銃の物語」を乗り越えていくことになる。
「少女と銃の物語」とは、あえていってしまえば、ロリータ・コンプレックスと武器フェティシズムを安直に結びつけたオタク好みのありふれたテーマに過ぎなかったようにも思える。
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