「自分」を生きるための思想入門 (ちくま文庫)

 だれもが幸せになりたいと思う。そのために努力する。あるいは空から落ちてこないかと願う。既に幸せを手に入れている(ように見える)人を妬む。責める。しかし、そもそも幸せとは何なのか、どういう状況になれば幸せなのか、はっきりしない。もしかしたらぼくたちは決して手が届かないものを追い求めているのではないか。それはしょせん蜃気楼の幻影に過ぎず、実態は存在しないのでは。

 その点をはっきり割り切ることができたら、ともかくひとつ悟ったといえるだろう。が、なかなかそうは行かない。きょうもぼくたちは幻かもしれない幸福を求めてむなしい物思いに耽るばかり。幸せの青い鳥は実は近くにいた、というメーテルリンクのあの物語を知らないわけではないが、それでも幸福とはどこか遠くにあるものとの思い込みを捨て切れない。

 自分を非リアと位置づける人は、世の中に自分ほど不幸なものはいないだろうと考える。なぜなら、愛する恋人もいないし、心をひらける友人もなく、ほしいものを買うお金もなく、時には仕事すら持っていないからだ。

 自分ひとりで世界の悲劇をすべて背負っているかのような錯覚。ああ、とかれらは嘆く。おれはなんて不幸なのだろう。それに比べてあの連中はなんと幸せそうなのだろう。そう、おれが不幸せなのは連中がおれから幸福を奪っていったからに違いない。しかも連中は生まれつき偶然に容姿なり才能に恵まれていただけで、べつだん優れた人間というわけでもないのだ。連中が憎い。リア充爆発しろ!

 しかし、かれはほんとうに不幸なのだろうか。一面ではたしかにそうなのだろう。だれも自分は不幸だと主張するひとに向かい、いやお前はほんとうは幸せなはずだという資格などないのだから。

 とはいえ、その哀しみ、苦しみをそのまま真に受けることはできない。ひとはときに己の不幸を嘆くことで自己憐憫の底なし沼に嵌まっていくものだからだ。竹田青嗣『「自分」を生きるための思想入門』に、以下のような一節がある。