デートDVと恋愛

 世間は恋であふれている。街なかを歩けば、流れてくる音楽のほとんどはラブソングだし、書店で売っている小説や漫画も何らかの点で色恋沙汰を扱ったものが多い。

 ネットで高額で売っている情報商材などもいかに異性を口説き落とすか、あるいは口説かせるかという内容のものが少なくないようだ。

 こういう世の中では恋愛ごとに興味を持たずに生きていくことはむずかしい。たとえ本来的に恋愛に向いていないひとでも、特定のパートナーがいないことは不自然だと感じてしまいがちだ。

 ほんとうは必ずしも恋愛パートナーがいないからといって不幸だとは限らないはずだが、そういうふうに思い込んでいるひとは少なくない。

 不幸だと思い込むこととじっさいに不幸であることは限りなく似ている。本来、幸福でありえるひとが思い込みのために不幸になっているとすれば、哀しむべきことといわなければならない。

 ところで、非モテ三段、ひきこもり二段の段位を持つぼくは、本質的に恋愛に向いていない人間だ。恋愛したい気がなくはないのだが、さっぱり相手が見つからない。

 一生に一度くらい恋なり愛なりを経験してみたいなあ、とは思っているのだが、機会がないのだからどうしようもない。そういうしているうちに30代なかばとなったので、もう恋愛を経験するチャンスはないかもしれない。

 いやあ、哀しいなあ、と思いつつ、そこそこ毎日が楽しいからまあいいか、と開き直ったりしている。

 そういうぼくから見ると、始終恋愛しているひとたちというのは、うらやましくもある反面、奇妙にも見える。そこまで恋愛というものは良いものなのだろうか、と。

 もちろん、人生を輝かせるような素晴らしい関係もあるだろう。しかし、なかにはその反対の関係もあるようである。DV(ドメスティック・バイオレンス)が絡む、支配―被支配関係に似た恋愛だ。

 恋愛は時として一方が他方を精神的に支配するゲームと化してしまう。直接な暴力がなかったとしても、相手を心理的に束縛する行為はしばしば見られる。

 伊田広行『デートDVと恋愛』では、そんな支配、束縛の根底にたがいに依存しあう「カップル単位の恋愛観」があるとし、そのオルタナティヴ(代替案)として、「シングル単位の恋愛感」を提唱している。

 シングル単位の恋愛観とは何だろう。それはつまり、「恋愛しても自分はひとりであることを受け入れ、パートナーを束縛せず、またパートナーに依存しないような恋愛観」のことである。

 本書からシングル単位の恋愛観について語った箇所を引用してみよう。