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 第五駅「リゲル――ハートカットガールズ」

 1.リストカットシンドローム。

 夜。

 家族が寝しずまった頃、ひとりしずかにベッドから起きあがると、机の奥にしまった使い捨てメスを取り出し、そっと、肌のうえを滑らせる。既に何本もの線がはしる肌のうえに、また一本、赤い筋が出来あがる。まるで他人の肌であるように、痛みはほとんどない。それは「乖離」と呼ばれる現象であると、何かの本で読んだ。

 思う。なぜ、こんなことをしてしまうのだろう。どうして、自分で自分を傷つけずにはいられないのだろう。ただ何となく安心するから。そう思う。自分に対する罰。そうも考える。あるいは、ほのかな痛みによって生きていることを確認したいのかもしれない。そうでなければ、単なる病気なのかも。とにかくこの行為に依存していることはたしかだ。

 ちいさくため息を吐き出し、傷口からしずかに流れだす血をぼんやりと眺める。これが、わたしの生きている証だ、とそう思いながら――。

 あなたは「リストカット」と呼ばれる行為についてご存知だろうか。おそらく、自分で試したことはないが話に聞いたことはあるという方が大半だろう。リストカットという言葉はいまメジャーだが、あえて自分で試してみようというひとは少ない。

 当然だろう。何の理由があって、自らからだを傷つけなければならないのか。多くの健康なひとはその理由を察せられないに違いない。

 それを病気や依存症のひとつと見ることはできる。しかし、異なる見方もある。表現行為として捉えるのである。絵を描いたり歌ったりすることと同じアートだと。ボディカットアートとでもいうべきか。

 この見方は違和感を誘うかもしれないが、しかし、自傷行為が何かしらの内面の発露であることは間違いない。リストカットを自殺未遂のようなものとして捉えることは間違いである。リストカッターは口をそろえて「生きるために」切っている、と語る。

 生きるために腕を切る、大半のひとにとって、その言葉は意味不明なものだろう。しかし、リストカットもまた、ひとつの「戦い」の表現だと捉えてみたらどうだろう。自分のなかから湧きあがる暗い想いとの、激しい「戦い」。それがリストカットという行為のかたちで噴出しているのだと。

 世界で最も有名なリストカッターは、英国のダイアナ妃だろう。アンドリュー・モートンの『ダイアナ妃の真実』には、彼女の自傷行為が赤裸々に綴られている。

 「あるときはケンジントン宮殿のガラスの陳列棚に身を投げかけ、またあるときは剃刀で手首を切った。レモン・スライサーのぎざぎざの刃で我が身を傷つけたこともあるし、チャールズ皇太子との激しい言い争いの最中に、皇太子のサイドテーブルに置いてあったペンナイフをとりあげ、自分の胸と腿を切ったこともあった」。

 ダイアナはなぜこのようなことをしたのだろう? 若く、美しく、豊かで、大国の皇太子妃の地位にある彼女が、なぜ自分を傷つけざるをえなかったのか? その理由はあきらかである。彼女は孤独だったのだ。

 いまではよくしられているように、この皇太子夫婦の結婚生活は冷ややかなものであった。夫チャールズは彼女を愛していなかった。そればかりか、ほかの女性を愛していた。当時の秘書であり、のちに結婚することになるカミラ・バーカー=ボウルズである。

 この頃、ダイアナはバッキンガム宮殿という特殊な環境下で心やすらぐ暇もなかったといわれる。彼女はメディアへの対応や公的行事の参加に終われ、ひとりではこなしきれないほどの仕事をこなさなければならなかった。そして、チャールズはそんな彼女をサポートしようとはしなかった。

 1982年1月、第一子ウィリアム王子を妊娠中のダイアナは、自殺をこころみ、エリザベス女王によって発見されている。さいわい、というべきか、このときは大きなあざを作っただけで済んだ。もしこのとき彼女が亡くなっていたら、英国はウィリアム王子を得ることもなかったことになる。

 女性の夢ともいえるものすべてを得ながら、なおかつダイアナは不幸であった。摂食障害で亡くなったカレン・カーペンターやこのプリンセス・ダイアナの物語は、どれほど高い地位にあっても、あるいは名声を博していても、この種の行為、あるいは病から逃れることができないことを示している。まさに「そういう問題ではない」のである。

 ダイアナは生い立ちそのものも幸福なものではなかった。1961年7月1日、彼女はオルソープ子爵(のちにスペンサー伯爵)の三女として出生している。両親は男児を望んでおり、彼女の誕生に落胆した。

 ダイアナが6歳のとき、両親は離婚。父親と母親は、子供たちに競いあってプレゼントを贈ることでその関心を買おうとした。花のように美しいダイアナは、それにもかかわらず「無条件の愛」を知らずに育つことになったのである。

 結局、彼女は9歳から寄宿学校に入ることになる。そして、こういった悪条件にもかかわらず、彼女はだれにでも優しく接する性格であった。ダイアナは障碍者のためのボランティア活動の後世によって学校から表彰を受けている。

 こうして来歴を見てみると、彼女が自傷行為に走ることになったこともある種、当然のことであったように思えてくる。ダイアナは幼い頃から「愛」に飢えていた。

 それを彼女に与えてくれるはずの夫は、ほかの女を愛し、彼女に冷たかった。彼女は救いを求めるようにして自分のからだを切り刻んだ。しかし、それでも夫はその行為を冷たく無視した。そして彼女はさらに自分を傷つけざるをえなかった。

 おそらく、ひと目のないところでも、ダイアナは自分の肌を切り裂いていただろう。何度も。何度も。復讐のように。

 2.メーターレスライフ。

 自傷行為にはさまざまなタイプがあり、ダイアナの例を簡単に普遍化して捉えるわけにはいかない。しかし、彼女の人生を見ていると、自傷行為が「戦い」の表現であるという思いは強まる。広く寂しい宮殿で、ダイアナはひとり孤独や周囲の無理解と戦っていた。彼女もまたひとりの戦場感覚者だったのである。

 ダイアナほど特殊な状況にない日本の若者たちにも、リストカットは広まっている。日本におけるリストカットは、70年代にアメリカから伝わったものだとされている。アメリカでこの行為が発生したのは60年代であり、それ以前の文献にはほとんどこの種の行為は見られない。リストカットとは現代の問題なのである。

 リストカットは当然、ポップカルチャーのなかにも浸透してゆく。少女漫画の世界でリストカットが描写された最初の例は、第四駅でも紹介した萩尾望都の『ポーの一族』であるという。このころ、リストカットは自殺のための行為という位置づけであった。

 しかし、時代を下ってゆくと、それじたいが目的と化したリストカットが描かれるようになる。また、一部のポップシンガーやロックアーティスト、たとえばX JAPANなどもリストカットを取り上げている。しかし、現代においてリストカットを連想させる曲を披露するアーティストといえば、なんといってもCoccoではないだろうか。

 彼女は自身リストカッターであり、また摂食障害も経験している。その心理はたとえば名曲「Raining」のなかで赤裸々に歌われている。

 それはとても晴れた日で 髪がなくて今度は 腕を切ってみた
 切れるだけ切った 温かさを感じた
 血にまみれた腕で 踊っていたんだ
 それはとても晴れた日で 泣くことさえできなくて
 あまりにも大地は果てしなく 全ては美しく
 白い服で遠くから 行列に並べずに歌ってた

 Coccoの歌う歌にはじつに強烈な魅力がある。それは彼女の歌が戦場感覚を帯びているからだと思う。リストカッターたちは、この平和な日本、豊かな日本が、しかし一面でいかに辛い戦場であるかを告発するために腕を切っているという一面がある。

 あるいは、彼女たちはほんとうは、その傷ついた心臓を切り裂きたいのではないか。そうして、心臓から流れおちる血の音を聴くときだけ、ほんの少し、やすらぐことができるのではないか。そんなふうにも思う。

 ハートカットガールズ。彼女たちの人生を、一概に不幸だと決めつけるわけにはいかない。リストカットしながらも、それなりに楽しく生きているひとは大勢いるだろう。しかし、全く人生に満足しきっている人間は、やはり自分の手首を切りつけたりはしないということも事実である。リストカットとは自分のうちなる苦痛を表現するアートなのだ。

 それにしても、なぜそうまでして苦しみを表現しなければならないのだろうか。それはけっきょく、この世に苦痛のメーターがないからである。ゲーム『キラ☆キラ』には、そのようなことを述べるキャラクターが登場する。

 もし、ひとにそのひとの感じている苦痛を表すメーターが付いていて、ほかのひとがそれを見れば彼女が苦しんでいることをわかるようなら、だれもリストカットしたりしないかもしれない。

 しかし、現実にはそのようなメーターはない。そのひとがどんなに苦しんでいても、そとから見ただけではそれとはわからないのだ。メーターレスライフ。わたしたちは、ひとの苦しみに対して、あまりにも鈍感である。

 リストカッターのインタビューなどを読むと、そのほとんどは親の愛に飢えている印象がある。彼女たちはときに親をうとみ、遠ざけるが、それでもなお、親に無条件に愛してほしいと考えている。

 それでは、リストカットは親のせいなのか。そういうふうに考えていくと、アダルトチルドレンや機能不全家族といった言葉が浮かぶ。しかし、じっさいにリストカッターたちの物語を追いかけてゆくと、親にすべての責任を負わせることは酷だと思えてくる。

 たしかに親の責任が全くないわけではないだろう。しかし、何も子供をひどく虐待しているような親ばかりではないのである。ほとんどの親が、それなりに子供を愛しているごく平凡な親であるに過ぎない。

 かれらには間違いもあったかもしれない。しかし、そもそも「完璧な親」などそういるものではない。ある程度の愚かしい行為はしかたがないのではないか。

 また、仮にすべてが親のせいであるとしても、その発見で何もかも解決するわけではない。その親もまたかれらの親から何かしらの被害を受けているかもしれないのだ。その連鎖は果てしない。どこかで断ち切らなければ永遠に続いていくだろう。

 そういう意味では、リストカットの「犯人探し」だけで話を終えてしまうべきではない。リストカットするひとには、必ずそれに対応する苦痛があるのだから、そのことを解決しようと試みるべきである。

 じっさい、ダイアナは解決のための努力をした。彼女の人生が悲劇的なかたちで幕を閉じたことはいまだれでもしっている。しかし、その死にいたるまで、彼女は多くのことを解決しようとし、またじっさいそれに成功した。これはひとつの希望である。

 もちろん、それは長く辛い戦いになるだろう。また、リストカットをやめることそのものが目的であってはならない。リストカットとはあくまで「表現」なのだから。

 ただ、リストカットをくり返していると、自分自身希望しない「事故死」のかたちで死が訪れる確率は高くなる。リストカッターのなかにも、もしやめられるものならやめたい、というひとが多いのではないか。

 リストカットはひとつの「表現」であり、「文化」ですらあるが、やはりその負担は小さくないのである。

 3.自殺の是非。

 リストカットはあくまで「生きるため」の行為であると書いた。しかし、それはしばしば「死」へと繋がっていることもたしかである。無謀なリストカットを繰り返した末、死にいたるケースは少なくない。

 リストカットの本来の目的を考えればそれはどこまでも「事故死」にあたるわけだが、それでも「死」であることには変わりない。リストカットは「死」と裏腹の行為なのだ。

 南条あやという人物をご存知だろうか。ネットに膨大な日記を遺し亡くなった女子高生で、リストカッターのあいだではカリスマ的な人気を誇っているという。その日記は『卒業式まで死にません』というタイトルで書籍化されている。

 その本を読むと、彼女の人気の秘密がわかる。南条あやの文章に自己憐憫の気配はなく、ユーモアにみちて、ポップですらあるのだ。一読、なぜこのような少女が死ななければならないのかと思わせられるほど。しかし、じっさいに彼女は自殺した。リストカットと、そしてオーバードーズ(薬物の過剰摂取)によって。

 死後、彼女は司法解剖された。彼女が飲んだ量の向精神薬だけで心臓停止するとは考えづらく、何らかの毒物を服用した可能性があったからだ。しかし、そこであきらかになったのは意外な真実であった。

 リストカットや瀉血による貧血で、彼女の心臓は弱っていたのだ。彼女の死は自殺ではあるが、しかし、心臓がそこまで弱っていなかったら死なずに済んだかもしれない。その意味で、その死は「事故死」に近い側面もある。

 南条あやは、生前、詩を書きのこしている。その内容は彼女の死を不吉に予感させるものであるが、ふしぎな魅力でわたしを惹きつける。

 南条あや。リストカットをくり返し、死神とダンスを踊る少女。最後には死神が彼女を連れ去ったが、しかし、その「生」はいまもわたしたちを魅了する。

 私はいつでも追いかけられている
 この世の中の喧騒とか
 義務なんてチンケなものじゃなくて
 自分自身に

 だれも助けてくれない
 助けられない
 私の現在は錯綜している
 きっと未来も
 ならば
 終止符をうとう
 解放という名の終止符を

 一方、より直接的な手段で「死」へ旅立つことを希望する人々も存在する。そんな人物たちにとって「福音」となったとされるのが、鶴見済による有名な『完全自殺マニュアル』である。

 さまざまな方法による自殺の手段を書き綴った、それだけといえばそれだけの本だが、この本は熱狂的な賛否を呼んだ。その内容は続編『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』に収録されている。この本には数百通に及ぶ反応が収録されていて、その内容はさまざまだ。あるひとは熱烈に歓迎し、べつのひとは「著者は悪魔だ」とののしる。

 そのいずれが正しいか、ここで議論することはしない。ただ、わたしが思うに、『完全自殺マニュアル』に見られるものは、ある種の人間中心主義である。それは「死」を自然に任せることを拒絶し、自己決定しようという宣言であるように思える。

 この発想自体、賛否を呼ぶものではある。しかし、人間の自己決定をどこまでも拡大していくことを目的とする社会では、必然として出てくるものであるように思える。本書後半において、わたしはこの「自己決定の拡大」が本当に人間に幸福をもたらすものなのか、再度確認することであろう。

 しかし、いまはこの本に賛否いずれの評価を下すこともしない。そもそも自殺は是か、非か。この問いに、わたしはあまり意味を見出すことができない。

 仮に倫理学者が「自殺は非である」と結論を出したとしても、自殺するものは自殺するであろう。逆に、「ひとには自殺する権利がある」という結論を出したところで、大半のひとは自殺せずとどまるに違いない。

 けっきょく、倫理的な是非がどうであれ、自殺するものはするし、しないものはしないのだ。したがって、わたしにはひとがなぜ自殺で死んでゆくのか。それを止める、あるいは少なくするためにはどうすればいいのか、といったことのほうが重要であるように思える。

 先にも書いたが、日本人の自殺率はきわめて高い。日本は先進国有数の自殺大国なのである。しかも、日本のほかの自殺大国は気候が寒冷であったり、夜が長かったりする土地柄であることが多い。その意味で、日本人は「死」に最も近いところで生きている民族であるといえる。

 インドの貧しい農村などでも、日本の都会よりはるかに自殺率が低いという事実は、わたしをあらためて驚かせる。しかし、それは紛れもない事実である。わたしたち日本人はタナトスに魅せられているのだ。

 作家の石田衣良は代表作『池袋ウエストゲートパーク』シリーズのなかで、『反自殺クラブ』という作品を書いている。その物語のなかで、自殺遺児からなる「反自殺クラブ」の面々は、ネット心中をこころみる人々を殴りつけ、自殺を止める。

 しかし、じつはかれら自身が「死」に近いところで生きており、ともすれば「死」に引きずりこまれてしまう。

 ひとを「死」からひき離そうとする者が、自分自身、「死」に魅入られているという矛盾。この矛盾は、リアルなものである。己が「死」に惹きつけられているからこそ、ひとが死んでゆくことが許せないのだ。本当に健康なひとは、そもそも「反自殺クラブ」を作ろうなどとはしないだろう。

 「死」は恐ろしい魅力を持っている。そこへ向けて身を投げ出せば、すべてを忘れ去れるという暗い魅力。それはこれからも多くのひとをそのあぎとにひきずりこみつづけることだろう。

 4.涅槃へ。

 ニルヴァーナというロックバンドをご存知だろうか。グランジ・ロックのカリスマと呼ばれる有名なバンドである。そのアルバムは大ヒットを記録し、一時期、熱狂的な人気を集めたが、ヴォーカルのカート・コバーン(コベインと書くほうが正確だともいわれる)は自殺して果てている。まさにかれは涅槃(ニルヴァーナ)へ到達したのかもしれない。20代での早過ぎる死であった。

 もちろん、自殺や事故死で夭折するロック・アーティストは少なくない。日本でいえば尾崎豊などもそうである。しかし、それにしても、カート・コバーンの「なぞの」死はいまなお伝説的だ。

 マーク・ペイトレスの『全曲解説シリーズ ニルヴァーナ』によると、カート・コバーンは「エルヴィス・プレスリーにだけはなりたくないと思っていた」。

 初め、危険すぎるアーティストとして出発したにもかかわらず、いつのまにかそのロックスピリットを失い、体制側に取り込まれ、妙にかっぷくのいいポップシンガーになり果てている。そんな運命はごめんだと。

 結局のところ、どこまでも「安定」を拒みつづけるものは、長生きはできないのかもしれない。カート・コバーンの辿った道を思うと、そう思えてくる。このどうしようもない現実を飛翔して、遙かなるニルヴァーナへ。「死」の誘惑は時としてそういうかたちを採る。

 その誘惑は才能ある若者たちのいのちを簡単に奪っていく。南条あやにしろ、カート・コバーンにしろ、優れた感性と才能をもった芸術家気質の若者だった。しかし、かれらは自ら死を選んだ。わたしはその死を美化しようとは思わない。しかし、同時にその死を貶めようとも思わない。畢竟、死は死である。

 ただ、思う。おそらく、かれらもまた戦っていたのだろうと。ハードに叫ぶような歌というかたちを採ったカート・コバーンにしろ、奇妙にポップでユーモラスな文章というかたちを選んだ南条あやにしろ、やはり戦っていた。

 つまりかれらもおそらくは戦場感覚者であった。かれらの敵は主に既存のモラルや常識、つまり社会を構成する「システム」である。

 その「戦い」に祝福あれ。自分の心の底しれぬ苦しみを、自傷行為というかたちで表現するハートカッターたち。思うに、それもまたひとつの「戦い」であり、彼女たちひとりひとりが「戦士」である。

 わたしはその「戦い」に敬意を払う。それは、あるいは、本来不要な「戦い」であるのかもしれない。もっと楽で器用な生き方があるのかもしれない。しかし、そのいかにも不器用な「戦い」に、わたしは共感せざるをえない。

 いつだってハートの傷のほうがリストの傷よりも深い。それなのにその傷は目には見えない。人々が気にするのは、表面の肌に刻まれた、より浅い傷のことばかり。それがこのメーターレスワールドの宿命なのだ。

 カート・コバーンも歌っている。

 拳銃に弾をつめて 仲間を連れてこい
 ハメをはずして遊ぶのは面白いぜ
 彼女はひどく退屈していてひとりよがり
 ああ ひどい言葉知ってるだろ

 ハロー ハロー どのくらいひどい?

 得意なことをやるときのオレはもっと最低
 この天分のお陰で祝福されてる気分になるよ
 オレたちのグループはいつもそうだったし
 最後までずっとそうさ

 ハロー ハローどのくらい ひどい?

 ――『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』

 この狂ったメーターレスワールドでは、自ら肌を切り裂きでもしないかぎり、だれも苦しみをわかってくれはしない。あるいは自分の頭を銃弾で粉砕でもしないかぎり。しかし、その命が失われたときには、もうすべては遅すぎる。この絶望的な矛盾を解決する術を、わたしは知らない。