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 第四駅「ヒアデス――穴のあいたパラシュート」

 1.成熟する少女漫画。

 わたしたちは第三駅で「少年の夢」の物語を見た。それはこの世界は戦場であるというグランド・ルールから派生した「強いものが生きのこる」という下位ルールのもとでの「戦い」を描く作品群であった。

 しかし、自然、このような価値に基づく作品では女性は脇役たらざるをえない。それでは、女性たちはどのようなかたちで「戦場」に適応したのだろうか。そのことを記して第一部を終えることにしよう。

 サンプルとなるものは前回の少年漫画にかわり、少女漫画である。そこには少女(女性)たちの愛と希望、野心と理想、そして悲嘆と絶望が、息づかいが聴き取れるかと思うほど生々しく記録されている。この章のみでかけめぐるには、少女漫画の世界はあまりに広大だが、何しろ紙幅に限界がある。許されたい。

 さて、少女漫画と一般にいうとき、わたしたちの頭に思い浮かぶイメージはどんなものだろうか。現実にはありえないほど大きく美しい目をした少年少女が恋をし、学園生活を楽しむ物語、といったところが最大公約数的なイメージだろうと思われる。

 じっさいの少女漫画はこのような単一のイメージで語るにはあまりにも多彩なのだが、このイメージが最も代表的であることは論を待たない。少女漫画から恋愛という要素を切り離せないことは、もはや常識以前だ。

 それでは、なぜ少女たちは「恋」に夢を見るのか。少女とはそういうものなのだ、と切り捨ててしまうのでなければ、何か理由があるはずだ。なぜ少女はいまもむかしも非現実的なまでに美化された恋愛を夢に見るのか。それは結局、その恋こそが自分を肯定してくれるという幻想があるからだと思われる。

 少女漫画批評家の藤本由香里によれば、少女漫画とは「私の居場所はどこにあるの?」という問いにさまざまなかたちから答えたものである。この世のどこにも自分の居場所はないのではないか、という不安に救いをあたえてくれるものこそが、素晴らしい男性との恋なのだ。

 少女たちは少年たちとはべつのかたちで戦場に適応したのである。彼女たちが夢中になった「愛」という名の幻想は、やがて男性たちをも支配するようになっていくが、初めに打ち出したのはやはり少女漫画である。

 少年たちが「ナンバー1」を目ざしていた頃、少女たちはだれかにとっての「オンリー1」を目ざしていた、ということもできるであろう。しかし「少年の夢」がやがて「だれもがナンバー1になることはできない」という現実に直面せざるを得ないように、「少女の恋」は「だれかにとってオンリー1でありつづけることはできない」という現実に直面し、さまざまに迷い、惑い、変貌してゆく。

 少女漫画の歴史とは、無邪気な恋愛幻想を相対化していく歴史であった、ともいえるだろう。つまり、少女漫画家たちは初め「愛」に夢を見たが、やがてそれが文字通りの夢、幻であり、ときにはひとの人生を狂わせるものですらあることを受けいれていったのである。

 もちろん、いつの時代にも、単なるありふれた恋を、何か世界の真実を巡る壮大なドラマででもあるかのように描く漫画は存在するし、それが少女漫画のひとつの王道でもある。

 しかし、そういった作品を中核にしながらも、少女漫画がしだいに「大人」になっていったことは事実だと思う。それは女性が社会進出していくプロセスと重なりあっている。少年たちがいつまでもゲームに夢中になっているかたわらで、少女たちはゆっくりと、しかし着実に、成熟していったのだ。

 いま、その成果を、たとえば津田雅美『ちょっと江戸まで』に見ることができる。これは西暦2000年代まで江戸時代が続いた平行世界を舞台にしたコメディなのだが、ひとつ恋愛だけでなく、政治や経済にまで目端の行きとどいたそのスケールはたぐいまれな物語に仕上がっている。

 もちろん、作中にはいくつか恋物語が登場する。しかし、それはもはや必ずしもドラマティックでも、ロマンティックでもなく、あたりまえの日常の行為のひとつといえるものになっている。

 同じ津田の代表作『彼氏彼女の事情』にしても、物語は恋愛が成立したそのあとに始まるのであった。もはや恋愛は人生を賭けた一大事業というよりは、複数の価値のなかのひとつという位置に落ち着いているのである。この作品のクールでインテリジェントな魅力はほとんど類を見ないものがあるように思う。

 あるいはだれもが現代少女漫画の代表格に挙げるであろうよしながふみ『大奥』。男女の役割が逆転した幻想の江戸時代において「美男子三千人」が集められた大奥の栄枯盛衰を描く気宇壮大な物語だが、この作品は「男女逆転」という視点からヘテロセクシュアルな恋愛に含まれる政治性を鋭く分析している。

 「ハンディキャップ理論」というものがある。男女の関係が不公平なこの社会では、男性と女性が平等に向かいあうためにはハンディキャップが必要だ、という考え方である。『大奥』はまさにこの理論を実践しているように思える。

 この物語のなかの恋愛関係は、ほとんど女性のほうが地位が高く、また聡明で、そのことによって関係の対等さが維持されているのである。逆にいえば、「対等な恋愛」を描くためによしながふみはここまでのトリッキーなアイディアを用いなければならなかった、ということなのかもしれない。

 対談集『あのひととここだけのおしゃべり』にはこの点について詳細に語られている。よしながにとっても、『大奥』という作品はひとつの挑戦であったことは間違いないであろう。

 いずれにしろ、少女漫画がきわめて知的な方法論を手に入れたことは間違いない。少女漫画はこれからも成熟を続けることだろう。

 2.サバイバル。

 世間的印象では家庭や学校といったミクロな空間を描くことに特化しているような少女漫画であるが、じっさいには少年漫画以上に壮大なスケールのSF、歴史作品をいくつも生み出している。そのなかで最も有名なのは『ベルサイユのばら』だろうが、特に90年代には「サバイバル」をテーマにした傑作が多数生まれた。

 たとえば吉田秋生『BANANA FISH』。あるいは田村由美『BASARA』。さもなければ樹なつみの『OZ』や『八雲立つ』。CLAMPの『X』。清水玲子の『輝夜姫』。それは同時代の『新世紀エヴァンゲリオン』などともシンクロするだろう。その背景にあるものは紛れもなくシリアスな戦場感覚だ。

 特に『BASARA』はその物語の波乱万丈という意味で、90年代の最高傑作に挙げたいほどの作品である。

 『BASARA』の舞台は文明が崩壊した遠い未来の日本。そこでは、無能にして暴虐な国王が日本を支配している。国王の圧政は日本中の人々を苦しめ、かれらは救世主の登場を待ち望んでいる。そんななか、主人公、更紗は殺された双子の兄タタラに扮し、国王に反旗をひるがえす。

 初め、彼女は無力である。その軍勢は地方の一反乱勢力であるに過ぎない。しかし、さまざまな人々に出逢い、成長しながら、彼女は日本をどのように変えていくべきなのかを考えるようになる。そして、そのプロセスで、彼女はひとりの若者と出逢い、恋に落ちる。かれが国王の息子のひとり、「赤の王」であるともしらずに――!

 『ロミオとジュリエット』を巧みに換骨奪胎した、ドラマティックとしかいいようがないロマンス。しかし、この物語の主眼はふたりの恋愛にはない。いや、恋愛も描かれるのだが、より重要な役割を果たすのはやはり国王との「戦い」なのだ。更紗はときに男装し、ときに少女の姿に戻り、冒険をくぐり抜けてゆく。

 男装は彼女の公的な責任を表し、女装は私的な自由を表しているようにも見える。彼女は少女として「赤の王」と愛しあい、少年として英雄タタラを演じる。その活劇のおもしろさ。『BASARA』はまずシンプルな物語のおもしろさがずば抜けている。おそらく、漫画史上でも最高のおもしろさであろう。

 しかし、ただそれだけではなく、この作品を読むとき、少女漫画がひとつ恋愛だけではなく、関係性だけではなく、政治や経済といった領域にまで関心を広げてきていることがわかる。

 もちろん、以前にも竹宮恵子『ファラオの墓』のような先駆的な傑作はあったが、『BASARA』の魅力はやはり革新的だ。いまのところ経済を主眼にした少女漫画というものは読んだおぼえがないが、どこかにあるかもしれないし、そうでなくてもいずれ出てくるかもしれない。

 一方、同じ90年代に、成田美名子は少々違う方向から傑作を書いている。『NATURAL』である。『エイリアン通り』や『CIPHER』が代表作として挙げられることが多い成田であるが、わたしは『NATURAL』こそ成田の最高傑作であるといいたい。

 インターナショナルな設定で物語を紡ぐことが多い成田であるが、この作品の舞台は日本である。といっても、主人公ミカエルはペルーの少年だから、やはり国際的な物語であるといえる。ミカエルは、あるとき、ペルーで罪を犯し、日本に逃げこんでくる。そこでかれはバスケットボールを通して数人の友人を得、人生を楽しむようになる。

 しかし、かれがペルーで犯した罪は、どこまでもかれを追いかけてくる。それはファビアンという青年だ。ファビアンはある意味でミカエルの「影」であり、「もうひとりの自分」である。かれの存在はある意味で「悪魔」ともいえるが、しかし、決して邪悪そのものといった人物ではない。

 たしかに悪行をなしはするが、それはむしろだれにも理解されないかれの表現行為なのである。ミカエルはファビアンにどう対処するか、試されることになる。それはつまり、かれが自分自身をどう扱うという問題でもあるのだ。そう、この物語の焦点となっているものは自分のなかの「悪」(「内なる蛇」)だ。

 物語は、やがて「悪」はどこか外にあるものではなく、自分のなかにある自分の一部であり、それは受けいれ、抱きしめるよりほかないのものなのだ、と示してゆく。

 長い時を経てファビアンと再会したとき、ミカエルは思わずかれを抱きしめる。「生きていて良かった!」と。かつて自分を殺そうとしたファビアン、自分の父親を牢獄へとおとしいれたファビアンを、かれは力強く抱きしめるのだ。それはある意味で自分自身を許し、愛することである。自分自身の「内なる蛇」を抱擁すること。

 この場面はじつに感動的だ。『NATURAL』はただ「悪」を自分から切り離し、外的なものとして処理する作品とは異なる次元に立っている。少女漫画という表現が長い時間をかけてたどり着いた、ひとつの到達点ということもできるであろう。

 『NATURAL』は90年代以降の少女漫画全体を見ても、最高傑作のひとつであると感じる。この時代の少女漫画はシンプルなエンターテインメントとして見ても、高度な芸術作品として見ても優れた作品が多い。

 今回は『BASARA』と『NATURAL』を取り上げたが、そのほかにも語るべき作品は数しれないのだ。そして、この章では、もうひとつ最大の傑作というべき作品を紹介することにしたい。

 萩尾望都『残酷な神が支配する』である。

 3.『残酷な神が支配する』。

 少女漫画の歴史は長く深い。その深遠な歴史を代表する作家をひとり挙げよ、といわれれば、わたしの場合、やはり萩尾望都になる。

 いまとなっては重厚な大作を次々と仕上げてゆく不世出の天才作家、という印象が強い作家だが、萩尾望都も最初は軽妙なラブコメディやファミリーコメディを描いていた。

 しかし、この天才は、やはりそれだけの物語に甘んじることをよしとしなかった。ときに少女漫画の枠を飛び越え、少年誌やSF誌に活躍の場を移しながら、八面六臂の活躍を続けるのである。

 『ポーの一族』、『トーマの心臓』、『メッシュ』、『銀の三角』といった華麗で深刻な長編、あるいは『半神』や『訪問者』や『エッグスタンド』といった綺羅星のごとき短編。それはいずれも戦場感覚の作品であった。

 そして90年代、彼女はついに最高傑作『残酷な神が支配する』への挑戦を始める。それはまさにありとあらゆる「愛」そのものを解体していく物語であった。父性愛や母性愛を初め、異性愛、同性愛、夫婦の絆、兄弟愛、すべての欺瞞が白日のもとに晒されてゆく。

 物語は、主人公ジェルミが、母サンドラと義父グレッグを殺してしまったそのあとから始まる。なぜ、ジェルミはこのような恐ろしい殺人を犯したのか。その理由は物語が進むにつれあきらかになる。

 実はジェルミはグレッグから性的虐待を受けていたのだ。家族が寝しずまった夜、ひめやかに行われる生贄の儀式。ジェルミは夜ごとグレッグに陵辱され、破壊されてゆく。

 そして、その悪夢的な状況のなかでも、「家族」はあたりまえのように続いてゆく。しあわせでみちたりた「理想の家族」そのもののように。しかし、ジェルミの殺人行為によってその欺瞞にみちた家族ゲームは終焉する。生きのこったのはジェルミと、そしてかれの義兄イアン。イアンはジェルミがグレッグを殺したことを知り、追い詰めていくうちに真実を知ってしまう。

 ここから、ジェルミとイアンのゲームが始まる。ジェルミは母を殺してしまった衝撃で完全に壊れている。もはやかつてのかれではない。そして死したグレッグは、しかしいまなおかれを苛む。地獄は終わらないのだ。

 じっさい、『残酷な神が支配する』の本編は、半分以上、グレッグとサンドラが死んでからの物語である。この物語では、加害者グレッグが死ぬことは、解放ではなくさらなる地獄を意味している。

 恐ろしいことに、いまやジェルミもグレッグと同じ加害者なのである。そして、イアンもまた傍観という罪を犯した罪人だ。ここにはもはやイノセントな人物はいない。だれもが重い罪を背負っている。聖母のようだったサンドラも、じつはグレッグによる陵辱を知っていたらしいことがあきらかになるにしたがい、地獄はさらに炎を増す。

 終わりのない地獄めぐり。読者は思う。いったいこの物語はどこに着地するのだろう、と。そしてあるとき、ジェルミはイアンにいう。お前もぼくがいるところまで堕ちてきてみろ、と。そしてイアンはジェルミを抱く。

 しかし、一般的なボーイズラブ作品と異なり、物語はジェルミがイアンの愛によって救われるというかたちは採らない。そう、ここでは「愛」はどこまでもひとを苦しめるばかりで、決して救わないのである。

 愛の問題についてはのちの章でふれるが、おそらく日本の漫画の歴史上、ここまで深く愛そのものを解体した作品は存在しないかもしれない。ここでは愛は呪いのようなもので、それなくしては生きていくことすらできないのに、どうにもひとを苦しめるのだ。

 グレッグはジェルミを愛していたのだろうか? サンドラは? そしてイアンは? この物語のなかでは愛は致命的に壊れている。どこまでが「愛」で、どこからが「支配欲」なのか、だれにもわからない。

 否、とこの作品を読むものは思うであろう。そもそも壊れていない愛など存在するのか。すべての愛がどこかしら壊れているのではないのか。もし壊れていない愛が存在するとしたら「神の愛」があるだけであろう。

 しかし、それは愛といえるのか。愛とは、あるひとをほかのひとと区別するからこその愛ではないのか。愛とはいったい何なのだろう――答えのない問い。

 『残酷な神が支配する』は天才が人類最大の問題に取り組んだその格闘の記録である。ひとつこの作品を生み出しえたというだけでも、萩尾望都は後世にその名をのこすことだろう。

 ここに少女漫画は「愛」を解体しつくした。現代の少女漫画においては、もはや、愛は遠いあこがれではなく、麻薬のように心地良いだけのものでもない。それは現実的にかかわっていかなければならないものであり、しかもいまなお甘美なものである。

 「愛」は誘惑する。わたしを手にいれれば、お前の苦しみは終わるのだ、と。わたしはすべてを持っている。それを何もかもお前に与えよう、と。しかし、わたしたちは「愛」とは壊れたものであることを知ってしまった。もはや無邪気に「愛」を礼賛することはできない。

 「愛」はメフィストフェレスである。ひとを誘惑し、堕落させる。しかし、それでもなお、わたしたちはだれかを愛さずにはいられないし、それはときにひとを救う。「愛」はときに諸刃のつるぎではあるが、それでもやはり「愛」こそは最も人間らしいものである。

 何も愛さない、ということは、ひとつの有効なディフェンスであろう。何も愛さなければ、裏切られることはないし、失うものもない。しかし、その生き方は十全に生きているといえるだろうか?

 わたしたちはこの世界と「関係」し、それを「愛する」ことによってこそ、「生」を満喫することができるのではないか。何も愛さなければ傷つくことはないかもしれない。しかし、それはやはりあまりに消極的な生き方である。失うことを恐れる生き方だ。

 わたしたちは「裏切り」を恐れながらも、生まれてくる子供を愛する。家族を愛する。異性を愛する。同性を愛する。それは「神の愛」には程遠い壊れた「愛」、あるいは薄汚れた「欲望」であるかもしれない。しかし、「愛」なくしては生きることは無だ。

 「愛」については第九駅でふたたびくわしく語ることになるであろう。

 4.砂糖菓子の弾丸。

 わたしたちは第三駅で「少年」の美学を見、この第四駅では「少女」の物語を追いかけている。「少女」とは何だろう? そう、「少年」がこの世界のグランドルールに過剰適応した存在であるとすれば、「少女」とは常にルールに異を唱えつづける存在にほかならない。

 少女漫画家ではないが、現代において、「少女」を語る際、欠かすことができない作家がひとりいる。桜庭一樹である。ライトノベルでデビューし、何冊か作品を上梓したものの、ほとんど無名だったこの作家は、傑作『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』で一躍注目を浴びる。

 『砂糖菓子』はまさに「少女」の物語である。ある地方都市を舞台に、虐待されつづける少女と、生活の重圧に苦しむ少女、ふたりの友情とも愛情ともいえるようなふしぎな関係を軸にくりひろげられる壮絶な物語は、ある種、「百合」的であるといえるかもしれない。

 また一応、ミステリ的な体裁も整ってはいるが、あきらかにそこには主眼がない。それはふたりの少女の「サバイバル」の物語であるという点で90年代以降の少女漫画とシンクロしている。

 そして、彼女たちの生きのびを賭けた闘争は、少女漫画にもめったに見られないほど過酷である。『BANANBA FISH』のアッシュ・リンクスがニューヨークでくりひろげたようなサバイバルストーリーを、桜庭は、現代日本を舞台に、ごく平凡な少女を主人公に展開した。そこには彼女だけの圧倒的なオリジナリティがあった。『砂糖菓子』はまさに戦場感覚の物語だったのだ。

 『砂糖菓子』発表後、桜庭は生まれ変わったかのように力作、傑作を生み出しつづける。その作品の主人公はすべて女性であり、少女であった。その意味で、倉橋由美子から連綿とつづく「少女小説作家」の系譜に連なる作家であるのかもしれない。

 桜庭は倉橋の『聖少女』の解説を書いている。桜庭によれば、三大小説といえるのは『聖少女』と、あとは森茉莉『甘い蜜の部屋』、尾崎翠『第七官界彷徨』であるという。納得のセレクションだが、じっさいに桜庭の小説はこれらの名作のあとを継ぐ作品である。

 『聖少女』が父と娘の禁断の近親相姦を主題に据えていることを考えれば、この作品が桜庭に与えた影響はあきらかだろう。彼女に直木賞をもたらした桜庭の最高傑作『私の男』は、やはり父子の近親相姦の物語なのだ。

 『砂糖菓子』や『私の男』のほかにも、桜庭は『推定少女』、『ブルースカイ』、『少女には向かない職業』、『青年のための読書クラブ』、『少女七竈と七人の可愛そうな大人』といった「少女小説」を書いている。桜庭の描く「少女」は「砂糖菓子」のようなふわふわした存在ではない。それは世界の不条理に立ち向かう「戦士」である。

 ときにはたぐいまれな美少女であることもあるが、その「美」は彼女にとって必ずしも望ましいものではない。桜庭がほとんどまともな恋愛を描かないことと、それは深い関係にあるであろう。彼女は「愛」という名の穴のあいたパラシュートに人生を賭ける作家ではないのだ。

 もっとも、彼女は恋愛に全く興味を示さないわけではない。少女荒野を主人公にした『荒野』は、桜庭にしては「薄味」の青春恋愛小説である。そこでは、「性」という門をひらく直前の少女の、逡巡と、哀しみとが、透明な文章で綴られていた。

 個人的に桜庭の作品でどれがいちばん好きかと聴かれたなら、わたしはこの作品を選ぶ。ライトノベルレーベルでは全く売れなかったそうだが、さもありなん、これは完全に女性による女性のための「少女小説」だ。

 あるいは、ライトノベルとしてはあまりに「薄味」すぎたのかもしれない。が、桜庭の作品群のなかでも最も繊細で、秀抜な小説のひとつである。

 一方、少女小説版『百年の孤独』ともいうべき『青年のための読書クラブ』では、「少女」の醜悪さが徹底的に暴露される。ある種、桜庭の『マリア様がみてる』ともいえる女子校小説なのだが、その展開はちょっと衝撃的である。桜庭の世界にナボコフのニンフェット的な麗しい少女幻想は存在しないのだ。

 もし、桜庭が『ロリータ』を書いたとするなら、それはまさにロリータの視点からの物語になるだろう。あるいは『私の男』がまさにその作品であるかもしれない。

 その意味で、桜庭の作品はたとえば、大原まり子の『メンタル・フィメール』や『ハイブリッド・チャイルド』に連なっているということもできる。大原まり子もまた、「少女」なる存在の暴虐を描いた作家だった。

 桜庭の世界にニンフェットがいるとすれば、ジュブナイル冒険推理小説『GOSICK』のヴィクトリカ嬢くらいのものだろう。しかし、そのヴィクトリカにしても、男性向けライトノベルヒロインからはいくらか逸脱する存在だった。

 桜庭の作品にある「世界への違和」「自分自身への違和」は、少女漫画ともシンクロし、ある種、理想の「少女小説」を形づくる。常に神経をとがらせていなければ生きてゆけない「戦場」で、戦い、生き抜きながら、しかし、その戦いそのもの、生き抜くことそのものに疑問を感じつづける存在が「少女」である。

 少女は、少女だけは、ふしぎの国のアリスのように、この世界に向け「変なの!」という権利をもつ。「少女」は世界に適応しない。「少女」は世界に違和を抱きつづける。彼女にとって、世界とは常に「変」な場所である。そうして、自分自身もまた、「変」である。少女とはその「奇妙さ」の告発者なのだ。

 そうして、その「変なの!」という告発は、世界の底から世界中へと広がってゆき、一部の人々の注目を集める。桜庭の小説をわたしはそのようなものとして捉える。

 戦場の国のアリス。すべてを統べる女王ですらもその告発をまぬかれることはできない。

 次章では、そのような世界に適応しそこねた少女たちが、どのようにして社会を生き抜いているのか、その実例を見ていくことにしよう。

 題して、「ハートカットガールズ」。