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 第二駅「ベテルギウス――レジスタンス」

 1.「蛇」と「システム」。

 あなたは考えたことがないだろうか。「悪」はどこからやってくるのだろうか、と。ひとは生まれたとき、だれもが無垢である。ドストエフスキーのイワン・カラマーゾフがいうように、神ですら幼子に罪を見出すことはできない。

 しかし、長ずるにつれ、しだいにひとは悪を知ってゆく。嘘を覚え、裏切りを覚え、ついには弱者をしいたげることを学ぶ。なぜ、ひとは無垢ではいられないのか?

 わたしは「始発駅」でひとの心に巣食い堕落へ誘惑する存在を「蛇」と名づけた。この「蛇」がひとを悪の道に誘うことは間違いない。しかし、一方では、ひとの蛮行を単にかれの内面の問題として終わらせることはできない。かれを悪に駆りたてる存在が外部にあるはずである。ここではその存在を「システム」と呼ぼう。

 たとえばひとが何かしら悪に加担するとき、そこにあるものは内面の問題だけではない。外からもっと大きな「力」が働いている。それが「システム」である。「蛇」と「システム」、内面の欲望と外界の強制力はたがいに連携しあい、ひとを堕落させようとする。

 たとえばマイノリティ差別の問題は個人の問題であると同時に社会の問題だ。社会が「差別せよ」というメッセージを発信しているとき、ひとはより差別に走りやすくなる。

 もちろん、かれにはそのようなメッセージを拒絶する自由もあるのだから、最終的には個人の問題であるともいえるだろう。差別や偏見は個人の心のなかから始まって、外へ広がってゆき、また個人の心へ帰る。この流れを「円環」と呼ぼう。

 この種の問題を解決するためには、この「円環」のどこかを絶ち切ってしまえば良いことになる。ただ、それは「蛇」と「システム」を同時に相手取るという困難な「戦い」になる。単に己の心のなかの差別心を打ち破るだけなら可能かもしれない。

 が、社会の「システム」がその差別を後押ししているとき、正義を貫くことは容易ではなくなる。しかし、それでもなお戦うひとはおり、そしてその戦いに勝利して「システム」そのものを変えてしまうひとも存在する。

 思え。かつて人類の歴史は奴隷の歴史であった。ヨーロッパで、中国で、アメリカで、鎖につながれ強制労働にかりたてられる人々が存在した。しかしいま、そのような奴隷の姿は見あたらない。それはひとが「システム」を変えてゆくことができる証拠である。

 「システム」は命令する。差別せよ。その声なき声に呼応し「蛇」は誘惑しはじめる。差別してみたらどうだ。その内と外から同時にやって来るメッセージに抗い、己の信じることを貫くことこそがひとの尊厳である。

 ナチス・ドイツの時代にも、迫害されるユダヤ人を救うため命を賭けた人々がいた。また反対にユダヤ人としてアウシュヴィッツに送られながら誇り高く生き抜いた人々もあった。

 「システム」がどれほど強力であるとしても、ひとの心は自由である。いかなる社会でも良心を保ちつづけることはできる。たとえ、その良心が「システム」を変えるにはあまりに無力であるにせよ。

 ひとがいるところ必ず「システム」がある。だが、「システム」に盲従することは自由意志を放棄することである。「蛇」にも「システム」にも支配されないことこそが「自由」だろう。

 それでは、現代日本社会においてはどのような「システム」が存在するのだろうか。たとえば学校空間ではどうなのか。そう、教室の「システム」はたとえば「いじめ」というかたちを採るだろう。

 教室内の個々人に「あいつをいじめろ」と命令する「システム」である。この「システム」の命令に合わせて個々人の心のなかで「蛇」が囁きかける。「そうだ、あいつをいじめなければ、次の標的はお前かもしれないぞ」と。

 こうして、堕落の「円環」は完成し、いじめという現象は発生する。ある種の子供たちにとって、学校空間は紛れもない戦場である。その子供たちとは、ひとより少し要領が悪かったり、口数が少なかったり、あるいは心が優しすぎたりする子たちのことだ。

 こういう子供はいまの学校においては即座にいじめの標的となる。あるいはいじめという表現は不適当であるかもしれない。現実に学校空間のなかで起こっていることは、この言葉では表しきれないほど凄絶である。それはひとつの「戦争」なのだ。

 大げさと思われるだろうか。しかし、現実に何人もの子供たちがいじめによって自殺していることを忘れてはならない。そして、そうでない子供もいつ自分が犠牲者に追いやられるか不安に思いながら生きている。いつだれが生贄にささげられるともしれない教室という名の戦場。

 スクールカーストという言葉がある。教室空間における「地位」の階級構造(ヒエラルキー)をインドのカースト制度にたとえた言葉だ。一般にスクールカーストにおける地位を決めるのは「コミュニケーション能力」であるといわれる。

 他者とのコミュニケーション能力が高い(空気が読める)人間がピラミッドの上に立ち、コミュニケーション能力が低い(空気が読めない)人間がピラミッドの下に座すと。学校空間とは「空気の戦場」なのだ。

 2.人形使い。

 いじめを行い、大事件にまで発展させた子供たちはしばしば無反省な言動をして大人を驚かせる。ひとひとりを死に追いやってもかれらは悪いことをしたとは思っていないように見える。そんな子供たちが大人の目には怪物に見える。しかし、そうではない。かれらはかれらなりの倫理を持っている。「空気至上主義」である。

 内藤朝雄は『いじめの構造』で、この「空気」を「群生秩序」という言葉で表している。群れの勢いですべてが決まる秩序というほどの意味だ。教室空間においては群生秩序がすべての規範であり、群生秩序を犯すことは「悪」となる。

 教室空間では一般的な倫理感覚(普遍倫理)は通用しない。あくまで教室内の空気に従うことが「善」であり、それに逆らうことが「悪」なのだ。いじめでひとを死に追いやった加害者たち、傍観者たちが、しばしば「いじめられたほうにも悪いところがあったと思う」と平然と口にすることはこの倫理に従っている。

 かれらが考える「悪いこと」とは「教室内での「身分」をわきまえないこと」であり、それに比べれば殺人ですら決して「悪」とはいえないのである。このようなある集団での支配的な価値を、わたしは「覇権価値」と呼ぶ。ひとりひとりのいじめ加害者は、実は教室空間の覇権価値である空気至上主義の奴隷であるに過ぎない。

 わたしたちは漫画『高杉さんちのお弁当』に空気至上主義によるいじめの描写を見ることができるだろう。この作品のなかでいじめはごく日常的な出来事としてごくあかるく描かれている。そのあまりの描写の軽さにショックを受けた読者もいるようだ。たとえばAmazonにこのような感想を発見できる。

 理由があったら、いじめをしても良いんだ。作者の作品が好きだっただけにショックでした。もちろん、読んだ直後に捨てましたよ。今後、どういう落ちを着けるのか興味のあるところですが、2度と作者の作品を読むことは無いでしょう。

 しかし、この読みは表面的すぎる。じっさいには作者は作中のいじめに対し何ら倫理的判断を加えていない。そこにあるものは「単なるありふれた現実」としていじめを見る視点である。フィクションの世界においてもはやいじめが「特筆すべき事件」という地位を失い、「あたりまえの日常風景」となりかけていることがわかる。

 そのことが意味しているものは実は途方もなく恐ろしい。群生秩序の尖兵と化した子供たちが、べつの子供をいけにえにくりひろげる残酷なゲーム。だれもがその「戦場」を生き抜かないことには大人になれないということなのだ。

 それはただ通過儀礼と呼ぶにはあまりに過酷な戦場である。そこでは加害者も被害者も群生秩序という「システム」に逆らう力を持っていないことが多いだろう。

 かれらは静かなあきらめとともに抵抗は愚かしいと「理解」している。教室のなかではいったん確立された「システム」に逆らうレジスタンスは孤立し、次のいけにえに選ばれる運命なのだから。

 乙一の小説『死にぞこないの青』はこの「いじめ」の地獄をきわめて正確に描写している。あるひとりの平凡な少年が教師によっていじめの対象へと誘導されてゆくプロセスを描いた物語である。

 そこにあるものは群生秩序の恐怖そのものだ。ひとを操り、蛮行へと走らせる「システム」の恐ろしさを知るのにこれほどわかりやすい作品はない。ナチス政権下のドイツでも同じことが起こっていたに違いないのだ。

 「システム」はひとを自由に操る人形使いである。ただ鉄の意思をもつもののみが、「システム」の支配と戦うことができる。

 しかし、それでは、学校を卒業しさえすれば、その先には平穏が待っているのだろうか。いうまでもなく、そうではない。その先には大人社会というべつの戦場が待っている。わたしが労働の過酷さについていっていると思われるかもしれないが、それだけではない。

 現代社会においては正常な企業に入社することからしてひとつの戦いである。日本経済の停滞とシンクロする終わりをしらない「就職氷河期」と、労働の質的変化によって、わたしたちの世代は「失われた世代(ロストジェネレーション)」と呼ばれることになった。いまや若者たちは「働きたくても働けない」「働いたところで生きていけない」現実に晒されている。

 これらの事実を否認する論者は多い。初めて「ニート」という言葉が流通しはじめた頃、それは若者の自己責任の問題として捉えられていた。すべてはかれらの「心の問題」であり、かれら個人が自分で解決するべき課題に過ぎないと。いまとなっては問題の本質がそのようなミクロの次元にないことは明白である。あるいは、当時から明白だった。

 明白な事実を否認させたのは、現代日本が「豊かな社会」であり「一億総中流」の状況にあるという幻想であった。「豊かで恵まれた状況にあるのに働こうとしないのは怠けているだけだ」という理屈によって若者は非難された。

 その頃、すでに当事者は強い危機感を抱いていたにもかかわらず、撤退的に戦場感覚を欠いた人々によって否認され、無視されたのである。いまなお、ニートやフリーターは若者の「甘え」だと考えているひとは少なくないだろう。しかし、何度でもくりかえしいおう、それは事実の否認に過ぎない。

 どれほど努力したとしても、椅子そのものが少なければ座れなくなるものが出ることは道理だ。そして、そうやって座りそこねたものたちは生存権すら脅かされる地獄へ落ちていく。

 これは少しも大げさでない客観的な事実である。始発駅であげた自殺者数三万人強という数字は誇張しようがない現実だ。たとえばアメリカの自殺率は日本の半分以下に過ぎない。この「平和な」日本は世界指折りの自殺大国なのだ。

 それでもなお、平等にチャンスは与えられているのだから限られた椅子に座れなかったのは個人の責任だろう、というひともいるかもしれない。

 しかし、その命がけの椅子取りゲームこそまさに「戦場」ではないか。敗北が死を意味するようなゲームはもはやゲームではない。戦争である。社会という戦場は、いま、学校という戦場以上に過酷なものになりつつある。

 雨宮処凛の『排除の空気に唾を吐け』によると、05年までの11年間での日本の餓死者は800人以上にのぼるという。わたしは何も間違えていない。この「平和な」「豊かな」日本で、年間平均70人以上もの人々が飢え死にしているのである。

 かれらは福祉の援助を受けることもできず、いわば社会のすべてに見捨てられて餓死していった。何らかの抜本的対策が打たれないかぎり、この数字は増えることはあっても減ることはないだろう。

 あいかわらず繁栄を謳歌しているように見える日本社会は、その実、何百もの「餓死地獄」を抱え込んでいるのだ。これもまた、紛れもなくひとつの「戦場」である。

 しかし、それはただ日本の政治や企業を責めるだけで解決する問題ではない。必ずしも世界のなかで日本のみが特殊な状況に置かれているわけではないのだから。ヨーロッパには失業率が日本の10倍に及ぶ国もある。

 いったい、この世界で何が起きているのか。わかりきったことだ。資本主義という名の戦争である。つまり、世界そのものがひとつの戦場だといえる。これが、わたしたちが確認することができる最も巨大な戦場である。

 3.戦場感覚の源泉。

 こういった状況下で、ついに本物の戦争を希望する若者が登場する。07年1月、雑誌『論座』に赤木智弘による「希望は、戦争。」と題する論文が掲載され、大きな話題を呼んだ。

 赤木は主張する。いま最悪の貧困生活を送る自分にとって、希望はもはや戦争しか存在しない、と。むろん、この極端な意見を「正論」で批判することはいくらでもできるだろうし、

 事実、その種の意見は多数集まった。しかし、そういった正論は、論理のレベルでは赤木を論破できても、心情のレベルでは納得させることができない。

 赤木はこういっているのだ。このまま一生真面目に働きつづけても「労働機械」として使い捨てにされて死ぬことになるのだから、それくらいなら「戦争機械」として栄光に包まれ死んだほうがましである、と。

 不穏当としかいいようがない思想ではあるが、かれは決して異常ではない。冷静に、理性的に考えれば考えるほどに、戦争でも起きなければ一生続く低賃金労働という地獄を抜け出すことはできないことがわかってくるというだけのことだ。

 赤木と同じような低賃金単純労働を一生涯続けなければならない若者たちのなかには、かれの思想に共感するものも少なくないという。赤木は鋭い戦場感覚を持っているからこそ、過激なロジックに走らざるをえなくなったのである。

 この例を見ると、戦場感覚がマクロな社会構造と無関係ではないことがわかる。むろん、戦場感覚者が皆、マクロ闘争を直接感じ取って戦場感覚を抱くにいたっているわけではない。しかし、マクロの出来事は確実にミクロに影響を与える。

 あるひとが抱える「生きづらさ」を、かれ個人の「心の問題」だけに還元することはできないのである。わずか20年前に比べても、わたしたちの社会の戦場性は急激に増している。

 年間数万人もの人間たちが自殺し、餓死し、過労死していく社会。これが戦場でなくてなんだろうか。戦場感覚者が異常でも何でもなく、ただ社会の現実をリアルに感じ取ってしまうだけの人々であることがわかるだろう。

 とはいえ、あなたはいうかもしれない。そうはいっても、わたしはいじめとも就職競争とも出世競争とも無縁だった、あるいはそれらすべてを勝ち抜いてきた、だからわたしには関係がない話だ、と。

 そうだとしたら、おめでとう、といわせてもらおう。なるほど、それならば戦場感覚を持っていなくても当然である。あなたはきっと、他人の「戦い」を、どこまでも他人ごととして眺めることができるだろう。

 しかし、それでもなお、この話はあなたと無関係ではない。なぜなら、たとえ実感がないとしても、あなたもまた戦場に生きていることには変わりはないからだ。あなたの平和、あなたの幸福は、だれかの犠牲のもとに成り立っているかもしれない。

 赤木智弘を思い出してほしい。かれは「社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ」ることを痛烈に批判した。平和な日本は、かれにとっては少しも平和ではなかった。

 そもそも平和とは何だろう。単に交戦状態が存在しない状態を指すならば、どんなに貧しい、どんなに乱れた社会も「平和」と呼べるだろう。しかし、あきらかにその形容はわたしたちの実感からかけ離れている。

 平和とは、そこに生きる人々が皆、その「生」に満足しきっている時代をいうのだ。もちろん、現実には人類の歴史上、そのような時代は存在しなかったし、これからもおそらく存在しないであろう。だれかにとっての平和な楽園は、べつのだれかにとっての戦場なのである。だからこそ、戦場感覚や戦場感覚に根ざす物語が生まれる。

 おそらく、真の強者はその感覚を理解しないかもしれない。強いものは、いつでも、ただ強いというだけで安全なところにいる。自分の強さに守られているのだ。

 しかし、ここまで縷々述べてきたように、現代社会にも弱いものを排除し、強いものだけを生きのこらさせる「システム」が存在する。あたかも環境に適応できる種だけが生きのこっていく自然のシステムを模倣するように。

 わたしはこの現実を肯定するわけではない。しかし、そういう現実があることは認めざるをえない。楽園は遠く、いまなお生きることは「戦い」なのである。

 このような状況にあって、ひとが戦場感覚を抱くことは、あまりにもあたりまえのことといわねばならない。現代社会という名の戦場で、ひとは戦う。あるときは生きるために。またあるときは「正しく」生きるために。

 戦場感覚を持つとは、その「戦い」を肌で実感することにほかならない。何ものとも戦うことなくあんのんと生きていける状況を「幸福」と呼ぶならば、戦場感覚者は不幸である。しかし、その不幸はときに高貴だ。

 4.ヒロイズム。

 ひとは快楽を求め、苦痛をいとう。否。ひとだけに限らない。生きとし生けるものすべてが、その法則にしたがって生きている。だれもがより安楽に生きたいと思う。それは人間の自然な欲望である。

 しかし、あるひとが楽に生きることは、しばしばほかのだれかの悲惨を見捨てることである。だからひとは、だれかのためにあえて苦痛をひき受けることがある。その精神を「侠」と呼ぶ。

 義を見てせざるは勇なきなり。「侠」の精神こそは、古今東西大衆を魅了するあらゆる物語に見られるものだ。しかし、それは「侠」を貫くことがいかにむずかしいかを逆説的に示してもいる。まして敵がその社会の「システム」である場合、かれの戦いは悲壮である。

 もちろん、それでもなお「システム」に抗おうとする人々は存在する。羽海野チカ『3月のライオン』を読んでみよう。作中、いじめにあっている友人を助けたヒロインが自分もいじめにあい、泣きながら帰宅して家族に学校での出来事を告げる展開がある。

 ここまではありふれた筋書きだ。この作品が真価を発揮するのはここから。となりにたたずむ主人公に向かい、彼女は自分がいじめられるにいたった経緯を踏まえたうえで、言うのである。

「後悔なんてしないっっ しちゃダメだっ だって私のしたことはぜったいまちがってなんかない!!」

 泣きじゃくりながらの、血を吐くような叫び。これはつまり群生秩序に抗しあくまでも普遍倫理を貫くという宣言である。彼女は「「システム」が何を命じようとも、自分はそれには従わない。自分は自分の倫理を信じる」といっているのだ。

 ある意味、そんな彼女は「空気が読めない」「不器用な」「要領が悪い」子供だろう。そしてスクールカーストでは底辺に属する「いじめられっ子」である。

 しかし、畢竟、スクールカーストが何であろう。たかが数十名の教室において「身分」が低いことが何だというのだろう。彼女はスクールカーストシステムそのものを認めない。

 そこにあるものは「下の身分」から「上の身分」をルサンチマンを込めて見あげる視点ではない。身分の上位と下位を規定する「システム」に対する「この「システム」そのものが間違えている」という告発なのだ。

 その告発は、ひとつ学校を超えて日本社会そのものの覇権価値を撃つ。そこには絶望的な逆境にあってなお正義を貫こうとする高潔な意思がある。だからこそ彼女の言葉を耳にした主人公は「嵐のように救われる」。

 しかし、彼女が高貴であればあるほどいじめはひどくなる。なぜなら、個人的な高貴さとは群生秩序に対する反逆だからだ。群生秩序社会における至上の倫理価値は「身分」をわきまえ「素直」であることなのだから、彼女の高貴さは紛れもない「悪」なのである。

 それでも彼女は自分を曲げず、意思を貫こうとする。彼女が抱いているこのような価値観を「覇権価値」に対する「対抗価値」と呼ぼう。

 教室とは、あるいは社会とは覇権価値と対抗価値がしのぎを削る「価値の戦場」であるともいえる。もっとも、そのとき、その場所における覇権価値に逆らうことは容易ではなく、覇権価値と対抗価値が拮抗することはまれだろう。

 多くのひとにとって、覇権価値はあまりにもあたりまえのことなのである。それはたとえば「ひとは幸福であるほうが良い」といった素朴な価値として表れる。一見、否定する余地がないようにすら見える当然のこと。が、そもそも幸福とは何だろう。それは世界の悲惨と苦悩から目を背けた、思考停止にほかならないのではないか。
 
 もちろん、ひとひとりが世界の苦しみすべてを背負うことはできない。しかし、ただひとり救われて幸福であることは、本当の意味での幸福とはいえないのではないか、と戦場感覚者は考える。

 戦場感覚者は不幸である、とわたしはいった。かれは世界をあたたかな楽園と信じることはできない。かれは死ぬまで、あるいは屈服するまで荒野で戦いつづける。いっそ屈服したなら、楽に、「幸福」になれるのかもしれない。静かな、穏やかな生活にひたれるのかもしれない。現に多くのひとはそうしているように見える。しかし、それでもなお、かれは戦うことをやめない。

 かれの敵はときに「蛇」であり、ときに「システム」であり、ときにはこの世界の不条理そのものである。戦って戦って戦って、戦い抜いたその果てには何が待っているのだろう。かれの一生は「幸福」とは無縁に終わるのだろうか。そのことについては、本書第三部(海燕注 同人誌版は三部構成だった。)で答えることとしたい。