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「でもわたしは赦すの 父上も上皇さまも法皇さまもみんな 赦すだなんて偉そうね でも どちらかがそう思わねば 憎しみ 争うしかない でも わたしは世界が苦しいだけじゃないって思いたい だからわたしは赦して 赦して 赦すの」

――アニメ『平家物語』より

 何だかちょっと思い至ったことがあるので、いささかならず長くなりますが、読んでみていただければ、と思います。

 どこから話しはじめたら良いか、そうだな、ぼくはいままで「敵」とか「怒り」とか「憎しみ」といった事柄をめぐる問題について長いあいだ考えていたんですね。

 この場合の「敵」とは「自分を殺しに来る存在」というイメージです。直接的に殺すわけじゃなくても、パワハラする上司とか、いじめをしかけてくる同級生とか、Twitterで攻撃してくるアカウントとか、そういう存在が「敵」にあたります。

 幸村誠さんの傑作マンガ『ヴィンランド・サガ』に、「敵なんていないんだ」みたいな話が出て来るのですが、ぼくはそんなのウソじゃん、と思っていたわけですよ。世の中、「敵」ばかりじゃん、と。

 話題騒然の少年漫画『タコピーの原罪』を、ぼくが特に面白いと思わないのは、あれはようするにこの世界のありのままの姿をそのままに描いた、ただそれだけの作品だと思ったからです。

 たしかにぼくのいうところの「戦場感覚」の作品ではあるけれど、「それ以上の何か」がないと、ほんとうの傑作とはまでは思わないかなあというのがぼくの評価でした。

 あの作品に出て来るしずかちゃんにしろ、まりなちゃんにしろ、よくわかるんですよね。だれかが自分を、あるいは自分の大切な存在を「殺しに来ている」とき、仕返しに殺そうとするのはあたりまえのことじゃないのか。ぼくはそう思う。思っていた。

 それが「敵」という概念。そう、たとえば、だれかが自分の大切な家族や恋人や友人を殺したとき、あるいは自分を殺そうとしてきたとき、それでもあいては「敵」ではない、といえるのか。

 アニメ『平家物語』の徳子はすべての被害を一身に受け止めて「わたしは赦す」というのだけれど、本当に人間に「赦す」なんてことができるのか。できるとして、「赦した」人間はその分の負債を負うだけではないのか。その理不尽。

 アパルトヘイト後の南アフリカで被害者の「赦し」によって加害者の罪を減じる「真実和解委員会」という裁判形式があるらしいのだけれど、人が人を「赦せ」るなんてぼくには信じられなかった。

 たとえば、いま、ウクライナで家族を殺された人たちは、ロシアを、あるいはプーチンを赦すことができるのか。仮にできるとしても、なぜ赦さなければならないのか。そういうようなことを、ずーっと考えていました。

 ベストセラーの『嫌われる勇気』によると、アドラー心理学には「共同体感覚」という概念があるといいます。これはすべての人を、人以外の宇宙すべての存在までも「仲間」だと捉えるその先にある感覚だと説明されます。しかし、あきらかな「敵」を「仲間」だと考えることなど本当にできるのか。

 ぼくはそこをほんとにずーっと疑っていたわけです。ぼく自身、「どうしても赦せない」と思う相手はいくらでもいたし、そういう「敵」のことを「仲間」だと捉えることはできそうにない。

 その「怒り」や「憎しみ」は限りなく苦しいのだけれど、一方で相手が「自己正当化」し、自分自身をだまして自分を「絶対の正義」だと考えていると思うとやはり腹が立つ。そのように「自己欺瞞の箱」に入っている人間のほうがよっぽどラクできているじゃないか、と考えたわけです。

 そういうことを延々と、かつ悶々と考えつづけて、もうへたすると10年くらいになるかな。で、考えに考えたあげく、結局、ぼくもやっぱり「敵」はいないのかもなあ、というところに考えが至るようになりました。

 ここから先はちょっと遠くから話をすることになりますが、この世界は、「自分」と「自分以外すべて」に分けることができますよね。で、「自分」はある程度のところまでコントロールできる一方で、「自分以外すべて」はほとんどコントロールできない。

 したがって、そのコントロールできない存在のなかで、自分に益をもたらす者を、ぼくたちは「味方」だと思い、害をもたらすものを「敵」だと考える。そういうことなのだと思います。

 しかし、よくよく考えてみると、じっさいには、ほんとうに「敵」と「味方」がいるわけではなくて、「自分以外」の存在はその人の意図や利益に従って動いているわけです。その結果、衝突や軋轢が生まれるに過ぎない。

 『ヴィンランド・サガ』における「敵なんていないんだ」というのはつまりこういうことだと思う。そこまではぼくも理解できる。納得できる。

 でも、それでも、非戦を望む『ヴィンランド・サガ』の主人公トルフィンに対しては「それでは、自分の家族や恋人を殺されても怒らないのか。憎まないのか」という風に突きつけてやりたいと思ってしまう。そこに欺瞞があるんじゃないのか、と思っていたんですよね。

 しかし、ぼくはいま、わりと自分の「敵」に対して怒ったり憎んだりする気持ちが薄れてきているのを感じる。いままでどうしても手放せなかったその「執着」が少しずつ薄くなってきているというか。その前に何年にも何十年にもわたる歳月があるんですけれどね。

 ぼくは中学生時代にかなりひどいいじめにあっていて、それからずっと消せない「怒り」と「憎しみ」を抱えていたような気がします。そしてなぜぼくがこんな不当な、理不尽な目に合わなければならないのかという、「運命と世界に対する敵意」も。

 でも、40歳を過ぎて、人生も半分終わったいまになって、やっぱりこの世界に「敵」はいないということなんだろうな、と腑に落ちた感じがするんですよね。

 たしかにぼくに、あるいはぼくの大切な存在に加害してこようと来る人はいる。そういう人はいかにも「悪意」と「自己正当化」で凝り固まっているように見える。そういった存在に大して無防備でいたら殺されてしまう。

 それは事実でしょう。たとえば、まさにウクライナがロシアに対して無抵抗ではいられないように。もし無抵抗なままでいたら自分自身はもちろん、自分にとって大切なあらゆる価値を奪われるわけですよね。それを許すことはできない。

 いま、ウクライナの多くの男性たちは、あるいは女性たちまでもそうかもしれませんが、次々と勇敢に義勇兵となって最前線で命がけで戦っているようです。

 この行為を非難することはできないでしょう。自分の国を、領土を、家族を、愛するものすべてを加害者から守ろうとすることは完全に正当だとぼくも思います。このとき、戦わなければ、立ち上がらなければ、何ひとつ残らない。戦うべきだ。

 しかし――それでも、なお、ぼくはこの世に「敵」などいないとも考えるようになりました。つまり、ロシアは、あるいはプーチンは、ウクライナ人にとっての「敵」ではないと考えることができるということです。

 それはどういうことか。ようするにこの場合の「敵」国、「敵」軍に対して、戦い、退ける必要はあるけれど、だからといってべつだん、「怒り」や「憎しみ」を持って立ち向かわなければならないとはかぎらないということなのです。

 おそらくこれはいかにも欺瞞的な話に聞こえることでしょう。「怒り」や「憎しみ」を持たずして、人が人を殺し領土を守ることができるものなのか、と思われても無理はありません。

 しかし、ぼくはいま、「できる」と考えています。「戦う」、「立ち向かう」、「抵抗する」という行為が「敵」へのどす黒い「怒り」や激しい「憎しみ」に彩られていなければならないわけではない。

 むしろ、人は自分の「怒り」や「憎しみ」を正当化するためにこそ、相手を「敵」とみなすと考えるべきではないでしょうか。あいつは殺されてもしかたない邪悪な存在なんだと思わなければ、たとえ殺されそうになっても、殺し返すことはできないのではないか。

 しかし、当然ながら、ひとりひとりのロシア兵、あるいはすべての大元であるプーチン大統領ですら、「悪」とレッテルを貼って済ませられるほど単純な存在ではありません。かれらにはかれらの理路があり、正義があり、欺瞞があり、執着があるのです。

 ぼくは「だから、お互いさまだ」とか「かれらを赦すべきだ」といっているわけではありません。かれらにどんな理屈があろうと、それでも殺し、退けなければならない。そういう局面は現実にある。それが戦場というものでしょう。この世の地獄。

 あるいは、かつてぼくが「戦場感覚」というタイトルの本でそう考えたように、この世界そのものが戦場のメタファーで捉えられるかもしれません。人と人の利益は対立しあうもので、しばしばだれかを殺さなければ生きていけないのが現実。この世は戦場。この世は地獄。そうではないでしょうか?

 ぼくはそう思うんですよね。いじめられっ子がいじめっ子に対し抵抗しなければ自殺にまで追いやられるでしょう。ロシアに対するウクライナがそうであるように。まりなちゃんに対するしずかちゃんがそうであるように。

 だから、人は戦わなければならない。だれかを殺して自分を、そして自分の大切なものを守らなければならない。そういうことは実際にある。それは「善悪」では捉え切れないこの世の絶対の真実、いわば「グランド・ルール」である。そう受け止める。

 その「大宇宙の黄金律」ともいうべき絶対のルールは人には変えられない。それは神さまがこの宇宙を生み出すときに決めたことなのであって、人にはどうしようもないことであるように思われます。

 だから、人は戦い、殺しあわなければならないことがある。それはマクロな「戦争」というレベルでもそうだし、ミクロな「教室」、あるいは「家庭」というレベルでもそうです。殺さなければ、殺される。そのとき、ぼくたちは「殺す」ことを選択せざるを得ない。

 『ヴィンランド・サガ』にしろ、あるいはその前の『プラネテス』にしろ、やはりその点はまだ突き詰めが甘いように思われる。

 生きていればどうしたって殺すか、殺されるか、あるいはその選択肢そのものを避けて逃げすべてを喪うか、選ばざるを得ないときがあるのではないか。それは人間にはどうしようもない「摂理」なのでは。ぼくはそういう風にしか捉えられない。

 ぼく(たち)はそういう戦場のような世界に生まれ落ちてしまった。それが現実。そうなら、絶望するしかないのか。あるいは、どうにか適応し殺しあいを続けるか。さもなければ、「争いをやめられない人間は愚かだ」とひとり高みに立ってうそぶくのか。

 そうではない、といま、ぼくは思う。人には、争い、戦わざるを得ないときがある。ただ、それでも、その過酷なルールによって縛られた「この世界」に対しどう考え、受け止めるかは選ぶことができるのだ、と。

 目の前の相手を、究極的にはこの世界そのものを憎むべき「敵」として捉えるか否か、それは自分の意思で選択できる。そして、その選択こそが、人間のもつ唯一にして最大の崇高さなのではないでしょうか。

 現実として、だれかと戦わなければならないときはある。だれかと殺さなければならないときはある。しかし、それでも、そうだからといって「漆黒の敵意」に捕らわれる必要はない。ぼくたちは自ら選ぶことができる。

 相手を「邪悪な敵」と見做して単純化し、「怒り」や「憎しみ」に塗りつぶされるか。あるいは「不運にも対立することとなった同じ人間」と見做して「哀しみ」や「憐れみ」を抱くか。

 そう、人はだれかを「憎む」かわりにこの世界の摂理を「哀しむ」ことができる。

 相手はあなたを殺そうとするかもしれない。それどころか、あなたのいちばん大切なものをののしり、嘲り、揶揄し、踏みにじるかもしれない。それに対しては、抵抗しなければならないでしょう。しかし、だから相手を「敵」と見做し憎むかどうかはべつだ。

 ぼくたちは「憎む」かわりに「哀しむ」ことができる。それはいかにも「女々しい」ことに見えるかもしれない。「弱々しい」態度に思われるかもしれない。じっさいそういう側面はあるでしょう。

 そもそも、自分の持っているものを命にかけてでも守り通さなければならない、その意識がいわゆる「男らしさ」の起源だと思われます。それは男たちにとって最大の誇りであるあると同時に、一方で「有害な男らしさ」といわれるものの源泉でもあります。

 ソーシャルメディアを見ていると、しばしば「いざとなったら戦うのは男なのだ」といった意見を見かけます。これは一面で反論しがたい理屈であるように思える。そしてまた、「だからこそ、この世界から争いがなくならないのだ」ということも本当でしょう。

 怒りに怒りを、憎しみに憎しみを返しつづけるかぎり、争いはなくならない。だからといって、「敵」を「赦す」ことはあまりにもむずかしい。ぼくたちはどうしようもないジレンマに捕らわれて「だから結局、戦うしかないのだ」というところに追いやられていく。

 それはある意味で、正しいことなのかもしれない。何度も繰り返しますが、「戦わざるを得ない」、あるいはそうでなければすべてを失うことを覚悟しなければならない局面は、この世界で生きる限り、かならず存在するのです。「無抵抗」は即ち死を意味します。

 だから、ぼくは「戦い」を否定しない。「戦士としての生き方」を、「直接的、間接的な殺人」を否定しない。ただ単に「人殺しはやってはいけない悪いことなのだ」といっても、問題は解決しないからです。

 ですが、どうしてもこの戦場のような世界で戦士として生きなければならないというのなら、だれかと戦い退けつづけなければならないというのなら、せめて「高潔なる戦士」であることを選びたい。

 「激しく煮えたぎる漆黒の憎しみ」ではなく「かぎりなく深い藍色の哀しみ」を抱き、そうであることに耐えつづけながら戦うこと。決して「怒り」や「敵意」に逃げずに争うこと。守ること。抗うこと。それがぼくが考える「戦場感覚」の一つの答えです。

 怒るのではなく、憎むのでもなく、哀しみを哀しみ尽くすこと。そのとき、初めて多くの「男性」たちは、「自分は女子供を守るため戦っているのだ」という強い自負とうらはらの「弱々しい存在」への蔑みと見下しを乗り越えることができるでしょう。

 この世は修羅の、戦いの世界。それはその通りです。しかし、それでも、この世界に「敵」はいない。「敵」とは、人の心が作り出す幻想でしかない。いるのは、不幸にも戦わなければならなくなった誰かほかの人間だけ。その哀しみを哀しもう、とぼくは思います。

 おそらく、そのとき、人はだれかを「赦す」ことができるのではないでしょうか。ぼくはそういうふうに感じる。で、ぼくもようやく30年間くらい抱えていた「怒り」を捨て、初めて「人を赦す」ことができそうに思います。

 この世にはたしかに僕を殺そうとして来る存在がある。嘲り、罵り、踏みにじろうとする者もある。それは「敵」のようにも思える。しかし、そうしたければ、そうするが良いでしょう。それはぼくのコントロールできない領域だ。

 たしかにそのとき、ぼくは自分と自分の大切なものを守るため、立ち上がるしかない。戦うことを選ぶしかない。しかし、ぼくはそれでも相手を憎まない。蔑まない。決めつけない。それは相手のためではなく、自分自身の尊厳のために。少なくともそうしたいと思う。

 あるいはこの宣言自体が傲慢そのものかもしれませんが、ぼくは「戦い」、そして「赦す」だろう。それはこの戦場のような過酷で残酷な世界をも赦し、そしてその世界と「和解」を遂げることでもある。

 そのとき、ぼくは自分の生を祝福することができるだろう。この世界に生まれて来て良かった。何の衒いもなくそういえるだろう。それが、それこそが、「戦場感覚」。

 と、そのようなことを考えました。いかがでしょうか。もし、ご意見があれば、よろしくお願いします。では。

 おしまい。