名探偵伊集院大介。「魔法つかいのお婆さん」になりたかった男。(1882文字)
かれが初めてぼくたちの前に姿を表したのは、栗本ミステリの最高傑作『絃の聖域』である。その頃の大介は大学を卒業したばかりの若い家庭教師だった。栗本は、さまざまな作品を通し、大介が初老の域に入るまでを描写していく。彼女が亡くなる時まで、伊集院大介シリーズの刊行が止まることはなかった。
それでは、大介のどこがそれほど魅力的なのか。ほかにいないほど推理力に長けた探偵なのか。違う。そういうことではない。ぼくにとって大介は探偵であるより前にひとりの人間であり、その魅力は推理機械というより生身の人間の魅力である。ぼくは大介の人間性にこそ惚れ込んでしまったのだ。
そういえば、ペトロニウスさんも伊集院大介は憧れの人物だと語っていた。が、ぼくとペトロニウスさんとでは注目しているところが違う気がする。ペトロニウスさんが憧憬を抱くのは、かれのたぐいまれな洞察力と、人間観察力なのではないか。
一方、ぼくが大介に憧れるのは、その底知れない優しさである。ぼくは大介のような人間になりたい、少しでもかれのように優しくなりたいと考えて、いままで生きてきた。ぼくに多少なりともひとを思いやる心が備わっているとすれば、それは伊集院大介というロールモデルがいたからである、といい切ってもいい。
名探偵でありながら、大半の犯罪者には心から共感できてしまうというかれの生き方は、いまなお、強くぼくを惹く。ぼくは優しい人間が好きだ。優しく、そして寛容な人間になりたいと思っている。ひとの愚かさ、過ち、背徳、あるいは犯罪、そういった好ましくないとされることどもについて、少しでも「赦し」の心を持って接する人間でありたいと願う。
じっさいのぼくは、そこまで心広くひとを赦せる人間ではない。ただ、ひとつの理想として、目標として、いまでも伊集院大介を追いかけていることに変わりはない。
大介は名探偵でありながら、物語の主人公ではない。かれはつねに、だれかの人生の観覧者である。ある意味では批評家であり、またある意味ではサポーターである。だれであれ懸命に生きようとするひとを助け、その望みを支え、そのひとが生きやすい方向へ向かわせてやる、大介の行動にはそういう意味がある。
当然、かれ自身の物語というのものもあるはずだが、あまりクローズアップされることはない。かれはいつだってほかのだれかに寄り添っている人物なのだ。
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