思う。ひとの尊厳とは何だろう。人間を人間たらしめているものとは、いったい何なのだろうか。ぼくにいわせれば、それはペトロニウスさん(@Gaius_Petronius)がいうところの「不幸の連鎖を自分のところで食い止める」意志だ。
世界にはいまなお、悲劇が満ちている。哀しみの慟哭が響きわたっている。そして哀しい出来事は鎖のように連なっていく性質をもっている。そのまま放置していたら、不幸はいつまでもどこまでも続いてゆく。だから、「その連鎖を自分のところで食い止める」、それがひとが生きるということの最大の価値だと思うのだ。
ある意味で、それは損な役割だ。自分が不幸で可哀想なのに、自分のまわりの人間を幸せにしてやろうなどと考えることは、吐き気がするような偽善的な態度、そう考えるひともいるだろう。
しかし、たとえ自分が幸福に恵まれなくても、だからまわりの人間を不幸に導いて良いというものではない。あえて「損」な道を選ぶ勇気、それがひとをひとにするものだと思うのだ。
つまりは、何かつらい目にあったとき、暴力的な現実に晒されたとき、だからひとも同じ目に遭えばいいと考えるか、それともその苦しみを自分が食い止めようと思うか、それがひとの尊厳を決めるのではないだろうか。
もちろん、これは綺麗ごとである。現実につらい目にあったなら、自分の不幸で頭がいっぱいになり、他者のことまで思い煩う余裕はなくなるかもしれない。しかし、それでも、ぼくは自分が苦しいからという理由で他者を幸福から引きずり降ろそうとは考えまいと思う。
そういう考え方が、ある種、正当なものであることは認める。ひとを怨み、憎み、自分の苦しみを世界中にまで広めていこうとすることはいたって当然であるとも考える。しかし――同時にぼくは思うのだ。「それでも」と。それでもなお、自分が引き受けることでだれかの苦しみを減らすことができるなら、そうしようではないか、と。損を承知で、ひとにあたり散らすことはやめようではないか、と。
この世で生きることは楽なことではない。むしろ苦しみの牢獄で絶えず戦いつづけるようなものだ。生きることは戦い、生きることは地獄。その苦しみの感覚を、ぼくは「戦場感覚」と呼んでいる。
この戦場感覚を持っているひとは、ある意味では不幸なのだろう。漫画『水の森』の台詞を思い出す。「「戦わなくていい」ということは本当に素晴らしいことなんだ」。そう、懸命に戦わなければ生きてこれなかったひとは、ある種、世界の被害者である。かれらが怨嗟の檻に囚われたとしても、だれも非難できないだろう。
しかし、「それでも」なのだ。それでも、だれかを怨んで不幸を振りまくべきではないのだ。むしろ自分が苦しいからこそ、だれかのために幸福の種を蒔くことにしよう。自分が戦いのなかでしか生きられなかったからこそ、だれかが無理に戦わなくていいように世界を整えよう。
そうやって世界のありようを少しずつ正し、自分のからだを盾にして暗黒と絶望を食い止め、そうして次世代に希望を託す。それがひとが生きるということであり、人類の歴史そのものなのだと思う。
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