弱いなら弱いままで。

『天気の子』対『鬼滅の刃』。

2021/01/08 04:16 投稿

  • タグ:
  • 漫画
  • アニメ
  • 天気の子
  • 鬼滅の刃
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
q?_encoding=UTF8&MarketPlace=JP&ASIN=B08

 昨日は何と暴風のためインターネットが使えなくなり、更新できませんでした。ごめんなさい。

 さて、先日、新海誠監督の『天気の子』が初めてテレビ放映されました。この機会に初めて作品に触れた人も少なくなかっただろうと思うのですが、衝撃的なクライマックスがどのように受け止められたのか気になるところです。

 いまさらネタバレに配慮する必要も感じないので語ってしまいますが、この作品の終盤で、ヒロインである「天気の子」を失った東京は水没してしまいます。

 そしてその水に沈んだ都市のなかでも人々は健気に懸命に暮らしているのでした、というオチなのですが、どう考えても何万人か何十万人か、膨大な数の人が死んでいるんですよね。

 これは一般に「世界」か「ヒロイン」か、二者択一の状況を突きつけられて、どちらを選べば良いのかわからないというセカイ系の問題軸に対し、「それでもヒロインを選ぶ」というアンサーを示したものと見られています。

 劇場で見たときはあまりにあまりの展開に呆然としたもので、はたしてこの結末をどう受け入れれば良いのか、いまでも悩むところです。

 たしかに、水没した都市のなかで人々は頑張って生きのびている。しかし、それはいってしまえば「たまたまそうだった」というだけのことに過ぎず、可能性としては文字通り都市がひとつ死滅してしまった可能性もあったわけです。

 もっと云うなら、人類が滅亡したかもしれなかったでしょう。それでも、なお、「ヒロインを選ぶ」なら、それはたしかに意味がある。しかし、ほんとうにそうだったのか。ぼくはいまでも思い迷う。

 ここでぼくが思い出すのはディズニー映画『アナと雪の女王』です。この作品でも、アナは姉エルサに対し無償の愛を示し、そのことによって彼女をも国家をも救うことになるのですが、ぼくにはそこで示された「絶対の愛情」がいかにも無根拠なものに思われてしかたなかった。

q?_encoding=UTF8&MarketPlace=JP&ASIN=B00


 ようするにアナは王族であるにもかかわらず何も考えていないからこそ、その国でささやかな人生を生きつづける無辜の人々について思いを馳せていないからこそ、無邪気に「エルサを選ぶ」ことができたに過ぎなかったのではないか。そう思われてならない。

 もちろん、「ヒロインか、世界か」というとき「世界」を構成するひとりひとりの市井の人々の人生にまで思い馳せることは人間には不可能で、だからこそ目の前のひとりの少女を救うことを選ばざるを得ない、という事情はあるかもしれません。

 「世界よりヒロインを選ぶ」と宣言するとき、「そこで犠牲になる「世界」の重さを、ほんとうに十分に想像したか」とぼくは考えてしまうわけですが、そもそも「十分に想像する」ことなどありえないのであって、人は限定された想像力のなかで決断していかなければならないものなのだということです。

 しかし、『天気の子』はともかく、『アナと雪の女王』の「めでたしめでたし」なハッピーエンドを見ていると、どうにも釈然としないものが残ります。

 悪く取るなら、そこにあるものは、ようは自分に関係のない人々のことは知ったことではない、自分にとって好ましい人間だけ生きのこれば良いというエゴイズムであるとも云えるからです。

 一方でその問いをまえに決然と「世界」を選び取ることを描く作品も存在します。他ならない『鬼滅の刃』です。

q?_encoding=UTF8&MarketPlace=JP&ASIN=B01

 『鬼滅の刃』では、 

ここから先は有料になります

ニコニコポイントで購入する

チャンネルに入会して購読する

  • この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。

コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事

継続入会すると1ヶ月分が無料です。 条件を読む

アラフォーオタクハゲの陰キャでも配信したい!

アラフォーオタクハゲの陰キャでも配信したい!

月額
¥330  (税込)
このチャンネルの詳細