年収150万円で僕らは自由に生きていく (星海社新書)

 イケダハヤト『年収150万円で僕らは自由に生きていく』を読み終わった。その気になれば1時間ほどで読み終えられそうな本なのだが、内容は充実、薄さを感じさせない。

 この本で一貫して語られているのは「脱お金」というテーマ。社会を運営するための道具に過ぎないものでありながら、ときにひとを縛り、使役させするお金というものからいかに自由になるか、それが縷々語られている。

 イケダの主張ははっきりしており「お金を儲けるために人生を犠牲にするくらいならお金なんていらない!」ということに尽きる。はっきりいっていかにも胡散臭いし、机上の理想論とも受け取られかねない話だ。

 この非情の資本主義社会を生き抜いているひとはだれも皆、お金の大切さを知り抜いている。お金があることは「自由」を意味するし、お金がないことは即ち「不自由」そのものである。お金があればほしいものを何でも買えるが、お金がなければ何ひとつ手に入らない。

 だからきっと、あなたはいうだろう。ナンセンス、資本主義社会が続いていくかぎり「脱お金」などという思想は空想の域を出ないと。そうだろうか。おそらくイケダもそういった反論が返ってくることは十分に予想しているはずだ。

 しかし、その反論を踏まえた上でかれはなおいうのである。「そうはいっても、お金のために死ぬなどばかげているではないか。いったい現実的に生活のためにいくらくらいのお金が必要なのか一度冷静に計算してみてはどうか」と。

 イケダがいう「脱お金」とは、何も一銭も稼ぐことなく、また使うことなくこの都市社会を生きていくということではない。それはお金を無条件に価値の至上位置に置くことをやめるというほどの意味である。

 イケダはお金の大切さを十分にわかっているだろう。しかし「大切」であるということと「最高の価値がある」ということはイコールではない。イケダがいわんとしているのは、お金はたしかに大切だが、その価値は人生のほかの要素と比較して慎重に決定する必要があるということだ。

 いままでの社会ではそれはあまりに重視されすぎていたのではないか、とかれは提言する。多少お金がなくても生きていくことはできるのでは? そう、たとえば年収150万円あれば自由に生きていくことは可能なのではないか、と。

 夢物語と思われるだろうか。しかし、現実に日本経済は長い迷路のなかを彷徨している最中であり、我々の所得は低減しつづけている。お金に最高の価値を見出すなら、我々が人生に幸福を見いだすことはよりむずかしくなってゆく一方だろう。

 つまり、最高の価値をお金からほかのもの、たとえば「自由」にシフトしていくことは、今後の日本においてほとんど選択の余地がない必然の作法なのである。我々はいやおうなく「脱お金」を強いられているのだ、といってもいい。

 この悲壮ともいえそうな状況においてイケダが試みるのが「豊かさ」の再定義である。新たな価値観において新たな豊かさを発見すること。それがイケダにとっての課題である。