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『カノジョも彼女』と「恋愛伴侶規範」の呪縛。

2020/06/19 04:35 投稿

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  • カノジョも彼女
  • ヒロユキ
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 LINEでちょっと話をしたのだけれど、ヒロユキの『カノジョも彼女』というマンガがちょっと面白い。

 大好きな彼女(恋人)がいるのにべつの女の子から告白された主人公が、二股をかけて付き合うことを提案するというなかなかふざけた設定のラブコメディだ。

 いや、ただのふざけた話だと思っていたのだが、回を追うごとに物語は進み、そうとばかりもいい切れなくなっているようなのだ。

 「どうせよくあるハーレムネタだろ。この先、恋愛対象が増えていくんだろ」と思い込んでいたぼくとしては反省させられる展開で、かなり革新的なラブコメになる可能性が見えてきた。

 どういうことか? つまり、この漫画、現代のほぼあらゆる恋愛ものの前提となっている「対幻想」、恋愛とは一対一の異性ないし同性間で継続的に行われるものであるというファンタジーを壊しにかかっているのである。

 もっとも、前述したように、主人公が複数の異性と付き合う「ハーレムもの」、ないし「逆ハーレムもの」は無数にある。BLとか百合にも複数の同性と付き合う作品はある。

 しかし、この作品においては主人公はハーレムを築こうとしているわけではない。複数の相手と同時に恋愛関係を結ぶセクシュアリティのことを専門用語(?)で「ポリアモリー」と呼ぶのだが、かれはそういうポリアモリー志向の人間ではないのだ。

 むしろ、かれはふたりの少女と同時に恋愛関係にあることを心苦しく思っている。また、少女たちのほうもべつだん疑似ポリアモリー関係に納得しているわけではない。

 かれらには、恋愛は自然、一対一であるべきである、そうでなければならないという対幻想の「恋愛伴侶規範」が内面化されており、そして、それにもかかわらず、現実に複数の相手に恋愛感情を抱いてしまったことに主人公の苦悩はあるのである。

 もちろん、あくまでコメディ漫画ではあるから、あくまでその悩みはコミカルに描かれる。だが、よくよく考えてみると、これはギャグでは済まない話なのかもしれないと思えてくる。

 そもそも、なぜ恋愛は一対一でなければならないのか? 恋愛的(romantic)に複数の相手に惹かれることは可能性としてありえるし、現実にあるわけで、必ずしも一対一の関係が神聖視される必要はないのではないか。

 だが、じっさいにはぼくたちの社会では、一対一の恋愛が当然であり自然であるという考えがほぼ支配的であり、そこから逸脱する「浮気」や「不倫」に対しては、当事者以外のだれかに被害を与えるわけではないにもかかわらず、きわめてきびしい社会的批判が向けられる。

 なぜなのだろう? 結論から書いてしまうと、その背景には先に書いた「恋愛伴侶規範(amatonormativity)」と呼ばれる思想があるのである。

 これは北米の哲学者エリザベス・ブレークが考案した用語で、この記事(https://note.com/asexualnight/n/ndb5d61122c96)によると、「「一人の特別な人に恋愛をして、その人と結婚して、ずっとその人だけを大切にすることが、人間の最高の幸せ」という考え方、あるいは、そういった考えに基づく圧力のこと」ということになる。

 「恋愛至上主義」と呼ばれる現代社会の背景には、この恋愛伴侶規範が強烈に存在している。そこでは、複数の人間との恋愛を選択するポリアモリーや、そもそも恋愛を欲望しないAロマンティックのようなクイアな形はどこまでも異端である。

 すべての人が一対一の恋愛を志向して当然という、見方によっては相当に傲慢な認識があるわけだ。

 で、『カノジョも彼女』の話に戻るのだけれど、この漫画の主人公もまたその恋愛伴侶規範を抱いて恋愛している。しかし、物語が進むにつれ、かれは自分自身のその規範性を信じられなくなっていくのである。

 それはやはりコミカルに描かれるわけだが、よく考えてみれば深刻な話だ。それはつまり、ある幻想を信じて生きていた人間が、それを信じ込めなくなっていくプロセスの描写だ。

 あるいは、対幻想を信じている人からしてみれば、このような主人公は不誠実な異常者とも見えるかもしれない。また、こんなものはあくまでフィクションとしての、ラブコメディとしての奇妙な設定であるに過ぎず、現実にはありえないことだと思われるかもしれない。そうでなければよくある三角関係ものとみなすことだろう。

 だが、そうだろうか。ぼくたちがいま抱いている恋愛観はキリスト教社会の伝統から生まれたもので、古来から綿々と続く伝統というわけではない。

 ご存知のようにイスラム社会などでは複数婚が認められているし、わが日本でも昔は富裕な男性なら幾人かの「妾(めかけ)」を持っていて当然だという時代があった。

 対幻想は恋愛の唯一の自然な形などではない。つまり、ある社会においてひとつの慣習が100年も続けば、あっさりとそれは「常識」で「あたりまえ」になるが、決してほんとうの意味で「あたりまえ」のことなどないものなのである。

 『カノジョも彼女』はその「常識」が壊されていくところを見せてくれるかもしれない。そして、その果てに待つものは、「だったら三人で恋愛すればいいじゃん! それでハッピー!」などという能天気な発想ではないかもしれない。

 この作品が示そうとしているものは、つまりはどんな種類のものであれ、人間の人間のあいだのある関係が永続的に続く保証など何もなく、むしろ変化していくことが大半なのだ、というファクトである。

 あるとき、どんなに好きであっても、その感情がいつまで続くかはわからない。あしたには消えてなくなっているかもしれない。したがって、恋愛に「ハッピーエンド」などありえない。

 そういう身も蓋もない事実が、この路線を進めば見えて来るように思う。それはラブロマンスというジャンルそのものの崩壊である。はたしてじっさいにそこまで行くかどうかはわからないが、行ったとしたら面白い。かなり洒落にならない話ではあるけれど……。
 

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