そもそも日本のサラリーマンは、失業者や生活保護を批判するが、今の都会の大企業では、本当に必要な仕事、つまり付加価値を出している仕事は、多く見積もって4割程度だろう。もしかしたら8割の人は無駄なことや、他人(他部署)の仕事をつくり出すための仕事をしているだけかもしれない。実際は社内失業している人も多い。もはや会社の多くは、価値を生み出す経済体ではなく、月30万~50万円の給与という名の年金を配る生活保護団体と化しているようにも見える。そんな組織を、銀行も政府も行政も必死になって支えるという構図だ。ではなぜ、政府も国民もみな、雇用が大事だと言い続けるのだろうか?ケインズ的な経済における労働・雇用効果を信奉しているからだろうか?当然、違う。それは、みな時間を持て余すことを心から恐れているからだ。現代人が真に恐れていることは、飢えることではない。存在意義(アイデンティティ)を失うことだ。
あなたは「働いたつもり」に陥っていませんか? 何をすれば仕事をしたことになるのか。(1980文字)
『ファイブスター物語トレーサーエクストラ2』のインタビューで、永野護の細君である川村万梨阿が、「永野はよく仕事しろといわれるけれど、じっさいには仕事しかしていないような状態」という意味のことを語っている。
永野がゲームに夢中になったのは、仕事を終えたあとのボロボロになった身体ではそれくらいしかできることがなかったからで、かれは普段はほとんど旅行に行くこともない暮らしを送っているのだと。考えさせられるエピソードである。
「仕事しろ」という言葉に対しては、以前、冨樫義博と絡めて語ったことがあるが、これはどうにも嫌な言葉だと思う。いっているほうはネタのつもりでいっているのだろうけれど、それでもどこか残酷さを感じざるを得ない。
どんなに仕事熱心な作家だって、たまには息抜きをすることもあるし、遊んだりお酒を呑んだりすることを必要としている。作家たちのそういう行動を一々「仕事しろ!」といって潰していくことは、控えめにいっても上品な言葉とはいえないと思う。
そういうあなたはどのくらい仕事をしているのですか、ほんとうにあなたがやっている作業は仕事といえるものなのですか、と問いたくなる。
冨樫義博にしろ永野護にしろ、日本でトップクラスの「仕事」をこなしている作家である。必ずしも生産量が多いとはいえないにせよ、その作品のクオリティはなまなかなものではないわけだ。
そういう作家に向かって「仕事しろ!」というためには自分自身、どれほどの仕事をこなさなければいけないのか。同じトップクリエイターならいう資格があるかもしれないが……。
この点に関しては、最近読んだ山口揚平『なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか』におもしろいことが書かれていた(ちなみにこの本、いまならKindleで600円で購入できます。オススメです)。
極論である。しかし、本質を捉えている。
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