ベルサイユのばら全5巻完結(文庫版)(集英社文庫) [マーケットプレイス コミックセット]

 はるか昔、かのフランス革命の頃のお話。時の王妃マリー・アントワネットは絶世の美貌のもち主にして魅力な人格の女性だったといいます。しかし、そのマリー・アントワネットは様々な憶測と醜聞に襲われ、彼女の正しい人間性を知るはずもない大衆たちによって哀れ断頭台送りとされてしまうのです。

 あるひとはいいました。もしマリー・アントワネットが、国民一人ひとりと直接に話をすることができたなら、その人柄の魅力でフランス革命を止めることができたかもしれない、と。しかし、それはもちろん不可能な話です。当時のフランス国民が何百万人いたか知りませんが、その百分の一と話をすることすら現実的ではないでしょう。

 時は経ってインターネット時代の今日、なお、マリー・アントワネットの問題は残っています。つまり、直接話しあえたならわかりあえたかもしれない問題が、そうできないためにこじれてしまうということがしょっちゅう起こっているのです。

 ぼくも自分の書いた記事が誤解されたと感じるとき、ああ、直接会って話したらずいぶんわかってもらえるだろうな、と思わずにいられません。もちろんぼくにマリー・アントワネットのような人格的魅力があるはずはありませんが、それでももし読者一人ひとりとじっくり会話をすることができたら状況はずいぶん変わるだろうと思います。

 でも、ぼくの書く記事には何千何万人という読者はいるわけで、現実的にはそれはとうてい無理といわざるをえません。やはり個人の人柄によってフランス革命を止めることはできないようです。

 結局のところ、問題の本質は一対多という構造にあるわけです。このスタイルを用いているかぎり、誤解を避けることは絶対にできません。いや、むしろ誤解が生じた際、丁寧に補修することができないというべきでしょうか。

 ひとりのひとに理解してもらうことはできても、100人に理解してもらうことは困難です。そして10000人のひと全員に正確に意見を伝えることは限りなく不可能に近いといっていいでしょう。一対多の構造は必然的に誤解と不和を生み出すようにできているのです。

 しかし、次善の策はあります。たとえばだれかひとりを選んで対話することによって、間接的に問題の本質を伝えようと努力することはできるかもしれません。それではマリー・アントワネット問題を根本的に解決しているとはいえませんが、何もしないよりましです。