あけましておめでとうございます。昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。さて、昨年最後の記事に続いてセカイ系の話をしたいと思います。セカイ系とは何か? ウィキペディアには、おおむねこのように記述されています。
セカイ系という言葉の初出は2002年10月下旬のことで、インターネットウェブサイト『ぷるにえブックマーク』で現れたとされている。この言葉は当初、その当時に散見されたサブカルチャー作品群を揶揄するものであった。「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」がその特徴とされており、ことに「一人語りの激しさ」は「エヴァっぽい」と表現されるなど、セカイ系という言葉で括られた諸作品はアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響下にあると考えられ、「ポストエヴァンゲリオン症候群」とも呼ばれていた。
この「セカイ系」という言葉はインターネット上で2003年の前期に流行したとされているが、後になって、この時期の言説を検証した前島賢は「『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受け、1990年代後半からゼロ年代に作られた、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵など、おたく文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入したうえで、若者(特に男性)の自意識を描写する作品群」と総括している。
また、批評家の東浩紀は「「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」」と定義しているそうです。
じつはインターネット発のジャーゴンであるセカイ系の定義はきわめてあいまいで、また、狭く取るとセカイ系に含まれる作品はごく少なくなります。そのため、必然的にセカイ系という言葉の意味は恣意的な拡大化の一歩をたどりました。
が、いまでもなお、東浩紀の定義は広く流通しているように思われます。その意味でのセカイ系はその嚆矢である『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された1995年に始まったといって良いでしょう。「すべては『エヴァ』から始まった」。ひとまず、そのようにいえるということ。
ただ、よくよく考えてみると、『機動戦士ガンダム』以前のマンガやアニメ、SF小説などにおいては「中間項としての社会」の描写を省いた作品は少なくなかったわけで、広くセカイ系という言葉の意味を取るなら、『マジンガーZ』だってセカイ系だよね、ともいえなくもないことになります。
とはいえ、やはり『エヴァ』以降のセカイ系作品は内容的に「一周回っている」わけで、旧来のアニメやマンガといっしょにすることはできないでしょう。そして、昨年、『エヴァ』から四半世紀が経った『天気の子』で、そのセカイ系は完全に終わったと見ることができると思います。
まあ、狭い意味でのセカイ系作品が流行していたのはもっとずっと前の話なのですが、『天気の子』はセカイ系の極北のかたちを見せてくれた作品でした。その意味で、この映画は「最後のセカイ系作品」と呼べるのではないでしょうか。
それでは、『天気の子』は従来のセカイ系作品とどこが違っていたのか? それは結局、「セカイが滅びたあと」まで物語が続いていく一点にあるでしょう。というか、「セカイ」は滅びに瀕しているものの、そのままのかたちで安定して結局、滅びなかったわけです。
もちろん、旧来のセカイ系作品には『最終兵器彼女』のように「セカイの終わり」をそのままに描いたものもありますし、そもそもそういった「抽象的な大問題」をミクロな問題と連結するかたちで扱っていることこそがセカイ系のセカイ系たるゆえんであるわけですが、そこでは「セカイの終わり」はほんとうに「終わり」だった。「終わりの、その先」を描いているという意味で、『天気の子』はやはり新しい。
いやいや、「終わりの、その先」とはどういう意味なのか? 「終わり」とは「その先」がないからこそ「終わり」なのではないか? そのように思われる方もいらっしゃるでしょう。
その意見は大変ごもっともだと思いますが、しかし、ここでそもそも「セカイ」とは何か、どのようなものだと捉えられているかと考えてみてください。一般に「セカイ」ないし「世界」と呼ばれているものは、「人間社会」とほぼ同義だと気づくはずです。
つまり、理屈でいうなら人間社会が壊滅し、人類が絶滅しても「セカイ」は続いていくはずなのだけれど、ぼくたちはそれを「終わり」として認識するということ。いい換えるなら、ここでいう「セカイ」とは「人間の認識する世界=人間社会」だということになります。
「セカイの終わり」とは、そのような人間社会が壊滅的に変貌することなのです。で、『天気の子』はその決定的なシフトを描きながら、その先でもなお、人間は変わらず生きていくことができるという表現を行った。
これはやはり「ミクロな個人(きみとぼく)」と「セカイの終わり(抽象的な大問題)」を描きながら、あまりに大きすぎる問題に対し決断できない個人を連綿と描いて来た従来のセカイ系とは一線を画していると見るべきなのではないでしょうか。
この作品のなかで、主人公である穂高は数々の「社会の規則」を破りながら、「セカイの法則」に手がとどくところまで達します。そして、セカイの在り方を決定的に変えてしまう。
さらに、その、いかにも「セカイか、ヒロインか」というふうに見える選択を行ったその後でも、セカイは滅びることなく、続いていく。これはたしかに新しく、そして極限的なかたちのセカイ系です。ここから先へ行ったらもうセカイ系とはいえないでしょう。
セカイ系はいわゆる「ゼロ年代」のサブカルチャーを象徴しました。そして、その後の「テン年代」においては、セカイ系を引きついた「日常系」が氾濫する一方で、『魔法少女まどか☆マギカ』や『進撃の巨人』に代表される「新世界系」的な作品が次々と生まれていくことになります。
セカイ系のゼロ年代、新世界系のテン年代と、めちゃくちゃな乱暴さを承知であえてまとめるとすれば、続く20年代にはどのような作品が来ることになるのでしょうか? 楽しみにしたいところです。わくわく。
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