はいどーも、キズナアイ――じゃない、海燕です。先ほど、ペトロニウスさんと電話で話していたんですけれど、編集作業ちうの同人誌『栗本薫カレイドスコープ』の話題になりました。
この本、ペトロニウスさんにもご寄稿いただく予定なのですが、「それでは、栗本作品の魅力とは何か?」と話しあったとき、ぼくは「作中人物に天罰を下したりしないこと」と答えました。
いい換えるなら、「登場人物を善悪でジャッジしないこと」ということもできます。
栗本薫は、作中で「悪人」を裁くということをしません。どのような残忍な所業の人間であっても、あるいは怪物、化け物の類であるとしても、自ら、生存競争の戦いに敗れ去らない限り、無理やりに物語から退場させられることはないのです。
これがどういうことかわかるでしょうか? 栗本薫の世界に勧善懲悪は存在しないということです。そこにあるものは、完全なるリアリズムだけです。
弱いものは敗れ、強いものが生き残る。そういう、どうしようもない過酷、苛烈な「パワーゲーム」を彼女は好んで描きます。暴力が渦巻く修羅の螺旋――その果てに、「それでもなお」、人間は愛と平等をつかみ取ることができるかということがテーマとなっているわけです。
優しいといえば優しいし、きびしいといえば、この上なくきびしい。そのフェアな態度が最も象徴的に表れているのが、〈グイン・サーガ〉の一巻、『闇の中の怨霊』のいち場面です。
この巻で、策士アリストートスは、何の罪もない無垢な少年リーロを無残にも殺害してしまいます。そして、あろうことか、天地に自分の無実を宣言します。それでは、その結果、何が起こったか? じつは、何も起こりはしないのです。
天が裂け、地がまっぷたつに割れてかれのみにくいからだを飲み込むことも起こりはしなかった。
また、うらみをのんだ小さな亡霊があらわれて、血だらけの指で誰かを指差してみせるようなことも。
さんさんと陽光は床にふりそそぎ、アリの青ざめた醜い顔を照らしていたが――神々の怒りのいかづちがとどろいて世界を闇にとざすこともなく、また空にあらわれた炎の指が宿命の神宣を告げる文字を昏い空に描いてみせることもなかった。
ただ、人々がしんとなって、この情景を見つめていただけのことであった。
この後の巻でアリストートスは死ぬことになりますが、それは単にパワーゲームに敗れただけであって、作者が自ら裁いたわけではありません。
これがつまり、「天罰を下さない」、「善悪でジャッジしない」ということです。どれほど残忍な悪行を為そうとも、それだからといって「悪」と認定されて物語から追放されることがないということ。
したがって、栗本作品ではしばしば必然として強者が弱者を踏みにじり、食い物にすることになります。「それが現実だ」と彼女はみなすのです。そして、そのなかでいかに弱い人々が生き、死んでいくのかを描写する。そこがたまらなく好きですね。
一方、非常に象徴的なことですが、たとえば山本弘さんなどは明確に「天罰」を下します。何しろ、本人がそう書いている。『神は沈黙せず』という小説のなかに、加古沢という「悪役」が登場するのですが、この人物を山本さんは物語の外の「作者の倫理」で裁き、殺しています。
そのことを、かれはこのように語っています。
僕は悪役としての加古沢に愛着を抱いていた。同時に、彼がのうのうと生き延びることは絶対許せなかった。現実世界では、悪が罰せられないことがあまりにも多い。しかし、せめて自分の創造した世界の中だけは、悪が滅び、主人公の苦闘が報われるものにしたかった。この世界ではどうだろうと、フィクションの世界では、神は正義を行なうべきであると。
(『出エジプト記』において、神がエジプト王の心を操りながら、同時にエジプト人に罰を与えたことも、神とは作者のことだと考えれば矛盾はない。現代の小説においても、作者は悪を操りつつ、悪を許さないものである)
もちろん、加古沢を滅ぼす自然な手段は他にもあった。たえば優歌に彼を殺させることもできた。しかし、それは正しくない、と僕は感じた。それではプロットとしては筋が通っていても、何かが決定的に間違っている。そこには「真の神」が介在する余地がない。
だから、作家としてのタブーを破り、加古沢には自ら手を下すべきであると決心した。
これが山本弘なんだよなあ、と思います。山本さんは「フィクションの世界では、神は正義を行なうべきである」と本気で信じている。
これは山本さんの信念なのでしょうが、ぼくから見ると、きわめてアンフェアな態度に思える。まあ、もちろん、山本さんの「正義」を評価する人もそれはそれでいるでしょうが、ぼくはいやですね。
もっとも、「フィクションは正義や倫理を表すものであるべきだ」と信じている人は、ひとり山本弘だけではなく、大勢います。そういう人たちにとって、フィクションは自分の奉じる正義を表現するためのひとつの手段であるに過ぎないのかもしれません。
これが、つまりぼくが栗本薫の作品を好きな理由であり、山本弘の作品を好んで読みながらも、ときにうんざりしてしまう理由でもあります。
山本さんには「正義が正義である世界」という短編もあるのですが、この世界を「正義が通用しない、理不尽で狂ったところ」とみなすまでは、栗本薫も山本弘も同じだと思うのです。
ただ、栗本さんがこの残酷な世界、狂った世界をそれでもあくまでも肯定していこうとするのに対し、山本さんは「そんなことは間違えている!」と否定する。そして、それが正しい立場だと信じている。そこに差がありますね。
この点、皆さまはどのようにお考えでしょうか? 『栗本薫カレイドスコープ』、よろしくお願いします。
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