ども。
皆さんご存知の映画批評家の町山智浩さんが、
皆さんご存知の映画批評家の町山智浩さんが、
ただ「攻殻機動隊」の草薙素子を始め、中身が男というか、男の作者の自我を投影したヒロインが多いんだけど。「幼女戦記」とか。中身はおっさん。
という発言を行い、例によって例のごとく物議をかもしているようです。面白いですね。
へー、そうなんだ、と意地悪く絡んでみたくなりますが、「『幼女戦記』は男の作者の自我を投影したヒロイン」ではなく、完全に男性人格を持ったキャラクターでしょ、というツッコミはすでに散々されているので、ぼくは触れません。
その直前で語られている「「攻殻機動隊」の草薙素子」が、ほんとうに「中身はおっさん」であるかどうか、いやらしく追及してみることにします。
ぼくは性格が善いので、個人攻撃に陥ることなく、なるべく客観的に、論理的に追求を試みたいと思います。なお、該当発言とその文脈はこのまとめをご覧ください。
さて、具体的に考えを進めるよりまえに、まず前提を確認しておくと、ひと口に『攻殻機動隊』といっても、大きく分けてそれぞれ設定が異なる四つのシリーズが存在します。
個々の作品はタイトルと登場人物はほぼ共通しているものの、内容的には微妙に異なっており、また当然、主人公である草薙素子の性格付けについても異同があります。おおよそパラレルワールドの物語と考えて良いでしょう。
この四つです。
1)原作マンガ版『攻殻機動隊』のシリーズ。2)押井守監督によるアニメ映画版『攻殻機動隊』とその続編『イノセンス』。3)神山健司監督によるテレビアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』のシリーズ。4)公安九課の成立を描く『攻殻機動隊 ARISE』。
もっというとゲーム版の『攻殻機動隊』なんかもあるのですが、ここでは省略。
たとえば草薙素子の全身サイボーグ化の経緯に関しても、「3」と「4」では異なる描写がなされており、「草薙素子の中身はおっさん」という命題が真か偽かと問うときには、そもそも「どの」草薙素子のことをいっているのか、と考えなければなりません。
町山さんが『攻殻機動隊』の草薙素子、というとき、「1」から「4」のいずれの草薙素子を想定しているのか。
単純に考えると、おそらく「2」の押井版でしょうね。仮にも映画評論家ですから、押井版の『攻殻機動隊』は見ていることでしょう。で、「1」を読んでいるかどうかは微妙、というところじゃないかな。読んでいない可能性も高い。
「1」の素子は押井版の素子よりいくらか「女性らしい」描写がありますから、「1」を読んでいたらこういう発言はしなかったのではないかと思います。
あと、まあ、「3」と「4」はたぶん見ていないでしょうね。見ていたらさすがにもう少し気をつけた発言をすると思う。わからないけれど。
さて、町山さんが想定したのが「2」であるにしろ、あるいは「1」であるにしろ、ここで考えるべきことはひとつ、彼は簡単に「男の作者の自我を投影したヒロイン」といっていますが、何を根拠に「作者の自我を投影した」といっているのかです。
もちろん、広い意味ではすべての創作のキャラクターは「作者の自我を投影」されているとはいえるでしょう。しかし、ここでいうのはあきらかにそのレベルの話ではない。
男性作家が自分のジェンダー的特質を投影した結果を、明確に作品内に見て取ることができる、といっているのだ、と考えるしかありません。
町山さんはその特質について具体的に説明してくれる気はないでしょうから、ぼくがかってに考えることにしましょう。考えられる可能性はいくつか存在します。
いちばん単純なのは、男性作家は一様にヒロインに「自我を投影」しているものだ、と考えていることですが、彼のその後のツイート、
押井守の「攻殻機動隊」では登場人物すべてが作者の投影だけど、そうでない描き手もちゃんといて、花沢健吾先生や押見修造先生の作品に登場する女性は、作者の自我の延長や都合のいい理想ではなく、自立した「他者」として描かれています。他にもそういう作品はいっぱいあると思います。
を読む限り、それは違うのでしょう。うん、これを読むと、やはり町山さんが想定しているのは「2」の『攻殻機動隊』に限るようですね。
ここで町山さんは単に「作者の投影」、あるいは「作者の自我の延長や都合のいい理想」とした描かれた「ヒロイン」、あるいは女性キャラクターと、そうではなく「自立した「他者」」として描かれたキャラクターがある、と主張しています。
それでは、押井版の『攻殻機動隊』が、「登場人物すべてが作者の投影」であるとは、何を根拠に発言しているのでしょう。
思うに、これにはあまり合理的な解があるようには思えません。たぶん、町山さんがそう思うというだけのことでしょう。
ぼくももちろん、映画『攻殻機動隊』と『イノセンス』は見ましたが、町山さんのいいたいことはわからなくもない。両作品における素子やバトーは原作とはだいぶ性格付けが異なり、難解で哲学的(?)なセリフをのべつまくなくしゃべり倒します(たぶん電脳とネットを常時接続して検索しているのだと思う)。
これは、おそらく押井監督の性格がそのままに投影されている側面が大きいと思います。それでは、やはり草薙素子は「中身はおっさん」なのかというと、必ずしもそうはいい切れない、とぼくは思います。
そもそも、町山さんはあたりまえのように「自我の投影」として描かれたキャラクターと、「他者」として描かれたキャラクターを区別していますが、これはそれほど明瞭に区別できるものではありません。
町山さんがこのように断定できるのは、たまたま押井守というクリエイターが世間的に有名な人物であり、また著書やインタビューなどを通してその性格や思想を開陳しているからに過ぎません。
だからこそ、「ああ、この草薙素子はきっと作者の自我の投影に違いない」と判断できるわけです。
しかし、あたりまえのことですが、ある程度、作者の自我が投影された側面があるとしても、だからといって「他者」として描かれている側面がないことにはなりません。
また、仮に町山さんが語るように「花沢健吾先生や押見修造先生」(押井さんは呼び捨てでこっちだけ「先生」を付けるのね)の描く女性像が「他者」として描かれていると認めるとしても、作者が自我が投影された側面が皆無だというわけではないでしょう。
先ほど述べたように、物語の創作においてはどのような作家も程度の差はあれ、作中人物に多少の投影は行っているに違いないはずで、こっちは「作者の投影」に過ぎない、こっちは「他者」だ、と語ることは、作品外の条件によるある種の先入観にもとづく固定観念以上のものではないと思います。
町山さん自身にしても、たとえば「何となく話し方が押井守っぽくて、押井守っぽい考え方をしているから押井守の投影だ」とか、そういうレベル以上の根拠はないでしょう。もしあるのなら教えてほしいものですが、きっとないと思う。
これは単なる揚げ足取りでしょうか? そうではありません。
たとえば、まとめのコメント欄でもちょっと触れられているように、SFファンなら知っていることと思うジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、本名アリス・シェルドンというアメリカのSF作家がいます。
この人、『たったひとつの冴えたやりかた』や『愛はさだめ、さだめは死』などで知られるSFの歴史上でも一、二を争う天才作家なのですが、女性でありながら男性名でいくつも「男性らしい」作品を書きました。
その結果、彼女が女性であるはずはない、男性に違いないと考える人があらわれたのです。しかし、だれよりも「男らしい」小説を書いてのけたティプトリーは実際には女性だった。
これは、作者の性別に対する判断がいかに間違えやすいものであるかを語る逸話であるように思えます。町山さんは押井さんが男性であることを知っているから素子を「作者の自我の延長や都合のいい理想」といい切っているに過ぎないのではないか、という疑いは残ります。
はたして「作者が男性である」という作品外情報なしでも、彼が素子に対し「中身はおっさん」といい切れたかどうかは限りなく怪しいところです。
しかし、それなら、町山さんの発言にはそれ以外には特に問題はないのでしょうか。
いいえ。この場合の真の問題は、べつのところにあります。つまり、仮に作品のメタレベルで、草薙素子は「作者の自我の投影」であるに過ぎないと作品外世界にいるぼくたちには確認できるとしましょう。
ですが、ほんとうの問題は作中世界において素子が「中身はおっさん」であることを匂わせるような行動なり言動を取っているかどうか、ということです。
もし、作品内において素子が完全に「女性として」描かれているのなら、どれほど押井守が自我を投影していようと、彼女は女性だとしかいいようがありません。当然のことです。
映画を語るときは本編の外の情報(たとえば作者のインタビューなど)に根拠を求めるべきではないのです。それでは、素子は「女性として」描かれているのか。
この問いへの答えは単純ではありません。なぜなら、素子は全身サイボーグの「義体使い」であり、そもそも生まれたとき男性だったのか女性だったのか、性自認は女性なのか男性なのか、また、男性や女性というジェンダー意識を有しているのかどうなのかすらわからないからです。
原作版においては彼女は男性の恋人を持つ一方、女性とも肉体関係を持ったりしていますが、これは原作の彼女がバイセクシュアルであることを示しはしても、彼女が男性なのか女性なのかを表してはいません。
そして、最後には「人形使い」と融合して男性の義体に入ったりします。また、押井版の素子も、本質的には特定の性別に捕らわれない人物でしょう。いったい彼女に「性自認」という概念が通用するのかどうか、微妙なところです。
ですが、ぼくはべつだん、だから町山さんのいう発言は間違えている、といいたいのではありません。繰り返しますが、そうではなく、そのようにジェンダー越境的に描かれ、しかし基本的には女性として行動し、活躍しているキャラクターを、「中身はおっさん」といい切る根拠は作品内のどこにあるのか、ということを問いたいのです。
これには先ほどの考えがアンサーになるかもしれません。つまり、素子は作中において、それこそ作者の自我や理想が投影されているとしか思えないような行動と言動をしている。そこから「中身はおっさん」といえるのだ、と。
しかし、どうでしょう。その「中身はおっさん」の根拠となる行動なり言動は、ほんとうに「おっさん」の中身なくしてはありえないものなのでしょうか。ぼくにはそうは思えません。
つまり、町山さんの発言の根拠をあくまでも作中に求めるとするなら、人間には「女性らしい」行動や言動と、「男性(おっさん)らしい」行動や言動があり、素子は後者を選んでいるから「中身はおっさん」なのである、と思っていると考えるしかないことになる。
これはあからさまに性差別的なジェンダー本質主義です。もっというなら、素子は作中で強く、賢く、統率力と洞察力に秀で、天才的な軍人であり警官でもあるような人物として描かれていますから、町山さんはそういう素子を見て、中身は「理想化されたおっさんの自我の投影」であって、決して「他者」としての女性ではありえない、と思っているのだろうという推論が成り立つ。
ようするに、草薙素子のような女性などありえない、これはおっさんの投影や理想の産物に違いない、といっているわけです。
実際問題、草薙素子には、彼女を女性として見て好きでいる女性ファンがたくさんいるはずなのですが、この町山さんの発言にのっとるなら、それは間違いだということになる。素子はあくまで「中身はおっさん」であって、女性ではないのですから。
これはあきらかに問題でしょう。ぼくは仮に素子がもっと「おっさん」らしい行動を取っていてたとしても、だからといって「中身はおっさん」だ、などという発言を軽々に行うべきではないと考えます。
たとえば、『マリア様がみてる』の佐藤聖は「セクハラオヤジ女子高生」などとあだ名されるようなキャラクターですが、決して「中身はおっさん」ではないでしょう。
「おっさんらしい」行動を取っているキャラクターの中身はおっさん、という判断は、逆にいえば、「中身が女性」なのは「女性らしい」行動を取っているキャラクタ-だけである、という判断と裏腹です。これが性差別でなくて何でしょうか。
ぼくは町山さんをリベラルな人だと思っていましたが、どうやらそれは間違いだったようです。まあ、『幼女戦記』のことを考えても、うっかり何も考えずに差別的な発言を行ってしまっただけなのだとは思いますが……。
以上です。疲れたのでもう終わりますが、ぼくなりに「最善の相」で町山さんの発言を読んでみました。どうでしょうか。ご理解いただけると幸いです。では。
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コメント
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(著者)
書き終えてからハリウッド映画版の存在を思いだしました。電脳をハックされたようだ。