弱いなら弱いままで。

正義としての差別。児童性愛者の人権を認めるべきか?

2018/11/01 00:57 投稿

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 たとえば、このような事態が考えられる。

 ある日、突然、同性愛者と認定された人々の人権が剥奪され、かれらは逮捕され、その上で一様に「正しい欲望」を持つよう薬物による「矯正」ないし「去勢」をほどこされる。

 そして、その後も一般的な権利が認められることはなく、一生、「狂った欲望」を持った異常者として扱われる。

 どうだろう? LGBTの権利が声高に叫ばれる現在、このような事態を肯定的に捉える人は、いないわけではないにしても、多くはないのではないだろうか。

 もし、このような政策を希望する発言を行う人物がいたとしたら、その人は差別主義者として強く非難されることを免れないに違いない。

 しかし、それがもし同性愛者ではなく、少年や少女を性の対象とする児童性愛者だったとしたら? その場合でも同じ意見が集まるだろうか?

 おそらく、そうではないだろう。もちろん、「とんでもないことだ」という人はたくさんいるはずだが、その一方で「あたりまえじゃないか」、「それの何が悪いんだ」と主張する人物もまた数多くあらわれることは容易に想像できる。

 その意味では、この現代日本社会において、児童性愛者はまともな人権すら危うい「弱者」であり、あらゆる性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)のなかでも最もひどい嫌悪を向けられている被差別グループなのである。

 じっさい、Twitterを眺めてみると、児童性愛者に対するヘイトスピーチとしか考えられない発言が大量に見つかる。

 これらのツイートを読むと、邪悪な悪魔にほかならない児童性愛者の人権を認めるなど笑止であり、そのような議論が進むことそのものが異常なことだ、と主張されている。

 ぼくはこういった意見は間違えていると考える。児童性愛者もまたこの国を形成する市民のひとりなのであり、ほかの性的少数者がそうであるように、罪を犯してもいないのに差別されることがあってはならないだろう。

 同性愛者の人権が認められるべきだとすれば、児童性愛者の人権も認められるべきだ。

 そもそも、人権概念に「例外」などあるべきではない。もし、「例外」を認めるとすれば、それこそまさに今日の人権を基盤とした社会においては決して許されるべきではない差別そのものというべきだろう。ぼくは、そう捉える。

 しかし、このような論の進め方をアンフェアだと考える人もいるはずである。ネットでもそういうふうに主張する人は少なくない。

 かれらはいう。同性愛者と児童性愛者は違う。同性愛者は互いに意思を確認しあえる大人に対して欲望を感じるが、児童性愛者は無垢な幼い子供に対してふらちな欲望を向けるのだ、これをいっしょにして良いはずがないではないか、と。

 なるほど、たしかにその通り。同性愛者と児童性愛者は違う。ぼくもそう思う。だが、その上でいうのなら、両者はその性的志向によって差別されてはならないという一点が共通している。

 性的な欲望を感じる対象が同性であろうが異性であろうが、あるいは子供であろうが、その時点では批判されるべきことではない。

 なぜなら、内心でどんな悪魔的なことを考えようがそれはその人の自由なのだから。「きっとこのような悪いことを考えているに違いない」などという理由で人が裁かれるようになったら、その社会はそれこそ地獄というしかない。

 ただ、もちろんこのような「きれいごと」では批判者を納得させることはできないだろう。かれらはいうに違いない。子供に性欲を向けること自体が罪だ、と。あるいは、いまは 我慢していてもいずれ子供に手を出すかもしれないではないか、と。

 これに対して反論することはできる。理屈の上では、内心の欲望を理由に人を逮捕するわけにはいかないし、いつか罪を犯す可能性があっても、いま現在、何もしていなければそれは犯罪にはあたらないのだ。

 しかし、そういったクリーンなロジックは児童性愛者に向けられるもっと生々しい嫌悪感に対してあまりに無力であろうと思われる。

 そもそも、年端もいかない子供に性欲を向けるような者が、まともな人間であるはずがないと思う人もいるかもしれない。そうした異常者は社会から駆逐するべきだと心から信じる人も少数ではないだろう。

 こうした心理は、あえていうなら、十分に理解できるものではある。特に幼い子供を持つ親であれば、そうした愛児たちに性的な欲望を向ける児童性愛者の存在は、とほうもなくおぞましく、邪悪そのものと思われても不思議はない。

 その嫌悪そのものを止めるすべはない(まさに児童性愛者の欲望を止めるすべがないのと同様に)。ぼくがここで求めたいのは、その嫌悪を社会正義と直結させないだけの聡明さである。

 ある人が児童性愛者を嫌悪することは自由だ。だが、それを普遍的な正義としてナタのように振り回しはじめたら、もう自由とはいえない。ぼくたちは、軽率にその正義に飛びつくことをくれぐれも戒めるべきだ。

 そもそも正義とはダイナマイト並みに扱いがむずかしいしろものである。本来、社会の大半の出来事は正義の白とも邪悪の黒ともいい切れない灰色の領域に属しているはずなのだが、それを無理に「白」と「黒」に分けようとするとき、何かの化学実験のように必然的に暴力が発生する。

 このような素朴で幼稚な二元論に根ざす正義の危険さは、いまさらえ説明せずとも、普段、ネットの言説を見なれている方ならよくおわかりのことだろう。

 ぼくたちは「正義の怒り」を暴走させないようよくよく気をつける必要がある。人類史に赤黒い文字で刻まれた数々の虐殺事件にしても、その多くは「正義の怒り」から始まっているのであろうから。

 とはいえ、このような理屈がどこまで現実的なのかは怪しい。何といっても、嫌悪をただ嫌悪に留め、社会正義と結びつけることを避けつづけることは高度に理性的な作法であり、多くの人は「自分の嫌いなものは悪だ」として恥じないだろうと思われるから。

 いや、当然、かれらのなかでは「嫌いだから、悪だ」などという子供じみた理屈で児童性愛者を排斥することを良しとするわけではないということになっているだろう。

 かれらの論理では、児童性愛者の権利を抑圧し、かれらを社会から排斥することには、自明な倫理的正しさがあるのであろうと思われる。

 だが、この、「自明さ」こそが問題なのであって、いま、人が、社会が「あたりまえのことだ」といってそれで済ませていることも「ほんとうにあたりまえなのか」と問い質していく必要があると思うのだ。

 この姿勢は、差別問題を考えるとき、必須のものである。なぜなら、被差別者とは「差別されている」ということが認定されないからこそ被差別者なのであり、差別者はつねに自分の行為や言説を「あたりまえのこと」として差別とは認めないものであるのだから。

 いい換えるなら、現に差別されていながらその事実すら認めてもらえない存在こそが最も悲惨な被差別者だということである。児童性愛者はこれにあたる。

 くり返す。児童性愛者の欲望や、その欲望がかたちになった作品に嫌悪を向けることは自由だ。しかし、それをまかり間違っても正義だと思い込んではならない。その種の思い込みは、悲惨な暴力をしか生みださないだろう。

 あるいは、そうはいっても、と考える人もいるだろう。やはり、子供を性欲の対象にしてしまうような人々は、何らかの人格的な未熟さを抱えたまま大人になってしまったのではないか。

 たとえば、「萌え絵」に夢中になる「オタク」たちなどは、あきらかにその絵に自分の身勝手な欲望を投影している。こういった人間はきちんと大人になるようその欲望を修正される必要があるのではないか、と。

 この種のロジックの問題点は、まず、児童性愛者の「性的志向」を自由に選び取ることができるものであるかのように語っているところにある。

 児童性愛者は、大人を性の対象とする異性愛者や同性愛者などがそうであるように、べつだん、自分の意思で「子供を好きになりたい」と考えたわけではない。

 欲望は神が貼ったシールのように人に植えつけられている。それがどのくらい先天的のものなのかぼくには判断ができないが、少なくとも性的な欲望のかたちを自分の意思で決定できる人はほとんどいないことはたしかだ。

 異性愛者の人に向けて子供を性の対象にしろといってもできないように、児童性愛者の人に大人を性の対象にしろということは無理があると考えるべきだろう。

 そして、もうひとつ、この議論は本来、児童性愛者ではない「オタク」たちをそのグループに入れてしまっているという問題もある。

 たしかにオタクのなかには幼い少女とも見えるキャラクターに「萌える」人間は少なくないが、だからといって即座にかれらが児童性愛者であるということにはならないのだ。

 もちろん、オタクでありなおかつ児童性愛者でもある、という人も一定数いるには違いないが、全体の比率として見れば少数だろう。オタクの大半は一定年齢以上の大人に対して欲望を感じる人間であろうと思われる。

 これに関連して、ネットでよくいわれているのが、「ペドファイル」と「ロリコン」は違う、ということだ。

 この両者の区別はかれらが欲望する対象である少女の年齢によって為されることが一般的だ。具体的な定義はもちろん存在しないのだが、「ペドファイル」のほうが「ロリコン」より低い年齢層に欲望を感じるとされていることが多い。

 その文脈でいうなら、大半のオタクはある種の「ロリコン」ではあっても、ペドファイル=児童性愛者ではありえないだろう。

 あるいは、児童性愛者の欲望は生まれ持った「性的志向」であるのに対して、オタクのそれは後天的に身につけた「性的嗜好」であるに過ぎない、といういい方もできるかもしれない。

 もっとも、ぼくはこのような区分を好まない。そもそも「性的志向」と「性的嗜好」の区別は、明確な科学的根拠があるものではない。どこまでが「志向」で、どこからが「嗜好」なのか、一定以上の説得力を持って語れる者はだれもいないはずである。

 そしてまた、「性的志向」であれば生まれつきなのだからしかたないが、「性的嗜好」は自分が選び取ったものだから許されない、などという理屈もばかげたものだ。この種のロジックを利用すれば、LGBTを初めとする性的少数者をいくらでも差別することが可能になるだろう。

 つまりは、世間、あるいは批判者から一様に児童性愛者のように見られている層には、生まれつき子供にしか欲望を抱けない人もいれば、ある種の「嗜好」として子供を性の対象として見る人もいる、また、可憐な「萌え絵」には萌えても現実の児童には一切の性的欲求を感じない人もいるだろう、という程度のことしかいいようがない。

 もちろん、ぼくはそのすべての人が過剰な抑圧に苦しめられることがない社会を希望する。
 

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