【『ちびくろサンボ』という傑作絵本】

 『ちびくろサンボ』という絵本をご存知だろうか。

 こう書くのは、『ちびくろサンボ』はある程度以上の年齢の世代だと知らないものはいないほどのタイトルなのだが、長いあいだ複数の出版社で絶版になっていて、入手できない時期が続いていたからだ。

 いまでは問題なく読むことができる本だが、あるいは、ある年齢層の人たちにはなじみがないかもしれない。

 それでは、この本はなぜ絶版の憂き目を見たのだろうか。特に内容に問題があったのか。そういうふうに見る人もいるが、ぼくはそう考えてはいない。この本の絶版は、ひとえにそのなかに「差別」が誤認されたという不幸な問題に寄る。そう思っている。

【キズナアイとちびくろサンボ】


 なぜ、いま、この作品のことを取り上げるかといえば、Twitterでつるし上げられたキズナアイの問題に、この『ちびくろサンボ』を巡る問題と重なるものを感じるものを感じるからだ。

 『ちびくろサンボ』と「キズナアイ」はともに「差別的なステレオタイプ」であると非難され、その表現をおびやかされた。しかし、そこにほんとうに差別性があるかというと、実際にはかなり怪しいのである。

 そういうわけで、少し『ちびくろサンボ』の話に付き合ってほしい。最後にはそれはキズナアイの話に繋がるだろう。

【『ちびくろサンボ』絶版への道】


 『ちびくろサンボ』が日本で問題になったのは1988年、いまからちょうど30年前のことだ。いい換えるなら、それまでは何の問題もなく出版されていたことになる。

 この本が問題視されたのは、「黒人差別をなくす会」というある小さな団体が『ちびくろサンボ』を扱う各出版社に抗議文を送ったことがきっかけだった。

 実は小さいどころではない、この「団体」は小学生の「書記」を含む家族わずか三名からなるグループだったのだが、このごく小規模な集団が日本中の『ちびくろサンボ』を絶版に追い込むに成功するのである。

 特にかの名高い岩波書店に至っては、講義を受けてから絶版を決定するまで、わずか四日の短さだったという。当然のこと、関係者各位との協議も何もない決定であったといわれている。

 このことを見ると、日本の出版社の人権意識の高さというより、「差別だ!」という抗議に対する弱腰さを感じずにはいられない。30年前のことではあるが。

 かくして、それまで子供たちの人気を集めていた『ちびくろサンボ』は、日本中の書店から姿を消すに至った。しかし、繰り返すが、ほんとうに『ちびくろサンボ』は差別性を秘めた絵本であったのだろうか。これについては、否定的な意見もたくさんある。

 そして、それらが認められたからこそ、いまではこの本は再び問題なく発売されるようになったわけである。

【『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』】


 そのなかの代表的な論客である灘本昌久の著書『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』によると、『ちびくろサンボ』が差別的であると批判されたのは、主人公の少年の「サンボ」という名前、そのイラスト、そしてストーリーに原因があったという。

 名前のことは「サンボ」はアメリカで奴隷によく使われた名前だという話なのだが、実際にはイギリス人の作者がそのことを知っていたとは限らないらしい。

 「サンボ」、そして父親と母親の「ジャンボ」、「マンボ」というネーミングがどこから来ているのかは諸説あってはっきりしないが、少なくともある時期まではこのことはほとんど問題にされなかった。

 そして、ストーリー。これは、サンボが活躍するのが虎が出て来るような密林であることが、黒人はそのような生活を送っているのだという印象を与えて良くないということなのだが、灘本氏はここに「アフリカの土人といっしょにするな」という現代の洗練された黒人の差別意識を見る。

 たしかに、『サンボ』がべつだん、すべての黒人がそのような生活をしていることを示しているわけではないことを思えば、そこに差別性を見て取ることはいかにも過剰だろう。

【「ステレオタイプ」批判】


 そして、重要なのがもうひとつ、サンボのイラストが「ステレオタイプ」であるという批判である。どういうことか。これはつまり、サンボの外見があまりにも「黒人のステレオタイプ」をなぞっていすぎるという指摘なのである。

 『ちびくろサンボ』というくらいで、サンボ少年は黒い肌のもち主なのだが、それがいかにも黒すぎる、という人々が、黒人にも、そして日本人のなかにもいた。つまり、「色が黒く、唇が赤く、髪の毛が縮れていることが強調されている」ことをネガティヴに捉えたわけだ。

 『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』から少し引用してみよう。

色が黒いということをマイナスとする価値観は、アメリカだけでなくイギリスも含めて多くのヨーロッパ諸国で共有されているが、アメリカでは肌の色だけでなく、黒人の唇や鼻の形、縮れた髪の毛などもマイナスイメージのうちに含まれている。「世界黒人地位改善協会」の創立者であるマーカス・ガーヴェイが一九一八年に発行し、当時、世界最大の黒人新聞であった『ニグロ・ワールド』には、皮膚用漂白剤とともに、唇の矯正器、鼻の成形器の広告が堂々と掲載されていた。アメリカの黒人が、肌をまっ黒に描かれたり、唇をまっ赤に描かれることを差別だと感じるのは、そのようなマイナスイメージがあるからだ。

 この本が刊行されてから20年が経ったいま、状況がどのように変化しているのか、いないのか、ぼくにはわからない。しかし、とりあえず、この頃にはそのような心理が広く見られたことは事実のようである。

 そして、そういった心理をもつ人々は、サンボの絵を見ると傷つき、「被差別の痛み」を感じて、この本をこの世からなくさなければならないと考えたようだ――もちろん、全員ではないにせよ。

 サンボは黒人の特徴を「カリカチュアライズ」した「悪しきステレオタイプ」だと見られたわけである。

【特徴の強調は悪なのか?】


 だが、ここでひとつ疑問が湧く。ほんとうに『ちびくろサンボ』は黒人の特徴を強調しているのか、そして、仮にそうだとして、それは悪いことなのか、ということである。

 思うに、イラストはすべて写実的なリアリズムで描かなければならないというものではない。むしろ、どこから特徴を誇張したり、強調したりすることができるからこそ、写真と映像の時代にも絵の魅力はなくならないのだろう。

 そうだとすれば、黒人の特徴を強調することの何が悪いのか。もちろん、黒人を侮辱する目的で極端に醜く描いたなら、そこには差別性が宿っているということもできるだろう。

 しかし、『ちびくろサンボ』がそうであるという根拠は何もないのだ。あるいは、「見ればわかる。わからないのは心が差別性に染まっているからだ」という人もいるかもしれないが、これは論理的でも科学的でもないいい草である。

 このような主観的意見でもってひとつの創作物を葬り去ることができるなら、表現の自由も言論の自由も許されないことになってしまう。

 とはいえ、じっさいにこのような意見が『ちびくろサンボ』をいったん闇に葬ったのだ。

【オスマン・サンコン曰く】


 たとえば、この頃、テレビタレントとして有名だったギニア出身のオスマン・サンコンは『ちびくろサンボ』について「まっ黒に色をつけて、まっ赤な口にして、まっ白な目にして、目立たせる、やっぱり良くないと思います」と発言しているという。

 このような主張は、どこまで正しいだろうか。ぼくには、やはり極論に過ぎるように思われる。そもそも、黒い肌を黒く描くことの何が悪いのだろう。赤い唇、白い目を、そのように描くことの何が間違えているのか。

 なるほど、『ちびくろサンボ』のイラストはリアリズムではなくカリカチュアに属するかもしれない。だが、黒人はカリカチュアライズして描いてはいけません、などというルールに説得力はないだろう。

 それをいうなら、日本人だって相当にカリカチュアライズして描かれているイラストがたくさんあるのだが、日本人はそれらに対してまず、この世から消し去ろうなどという情熱を抱かない。やはり『ちびくろサンボ』絶版が正当だとはぼくには思えない。

【「傷ついている人」の声】


 あるいは、そうはいっても、という人もいるかもしれない。じっさいに傷ついている人がいるのだからその声は尊重されるべきではないか、被差別の重い痛みに比べれば、たかが絵本一冊程度に何をこだわることがあるのか、と。

 だが、これは作品の価値を低く見たいい草である。問題が、たとえばドストエフスキーとかシェイクスピアの作品だったら、だれもこんなことはいわないだろう。

 過去の文豪の作品にも、見ようによっては差別的と受け取ることができる箇所が散在することは間違いないとしても。

 つまり、「差別される痛み」を訴える人がいるからといって、すぐさま「差別だ!」と告発された作品を取り下げたりするべきではないのだ。

 そのような態度は、一見するとこの世から差別をなくすことに役立つように思われるかもしれない。しかし、実際に悪質な差別ではないものを差別として消し去ったなら、その排除に成功したほうは「やっぱり差別だったんだ」と考える。

 そして、自分たちは差別に取り囲まれているという心理をますます強めることになるだろう。それが、「差別されている」人々にとって良いことなのかどうかと考えてみることが必要である。

 少なくとも、ほんとうに対等に相手と向き合う覚悟があるのなら、差別ではないものは差別ではないとはっきり口にするべきだ。もちろん、その前に、自分の心に虚心坦懐に問うてみることは必要ではあるにせよ。

【キズナアイとステレオタイプ】


 さて、キズナアイである。

 キズナアイもまた、女性をおとしめる「差別的なステレオタイプ」として告発されたのだった。告発者たちはいう。この場合、キズナアイは特定の「ジェンダーロール」を再生産する「ステレオタイプ」であると。

 前の記事で取り上げた少年ブレンダさんに至っては、キズナアイは「男の子たちを接待するプロのヴァーチャル嬢」であり、「一種の風俗産業のようなもの」とまでいい切っている。その上でそのような人間はNHKの記事にはふさわしくないというのである。

 ぼくはここにやはり「頭の悪い娼婦のような女といっしょにするな!」という傲慢な差別意識を見て取らざるを得ない。

 なるほど、知的な女性が「頭の悪い女」といっしょにされるは、優秀な黒人が未開地の野性的な人間といっしょにされるくらい耐えがたいことかもしれない。

 だが、だからといってNHKには知的な(そして性的魅力を表に見せない)女性だけしか出すな、などという暴論が通るはずもない。『ちびくろサンボ』の場合とまったく同じく、差別である、と告発する側のほうがよりひどい差別意識を露出させている一例である。

【萌え絵というカリカチュア】


 いったいこれは何なのだろう? ひとついえることは、「萌え絵」もまた極端に人体を誇張したカリカチュアライズではあるだろうが、悪意をもって誇張しているわけではないということである。間違いなく、より可愛く、美しく見えるように配慮して誇張されている。

 それを「性的だ」と見ることもできるだろう。しかし、それでは、「性的な魅力がある」とみなされる格好をしていることは悪いことなのだろうか。ふしだらで、よこしまなことだろうか。フェミニズムは、そういう決めつけとこそ戦ってきたのではないか。

 もちろん、これに対しては、「そうではなく、キズナアイを性的な目で見る男性たちの問題なのだ」という答えが返ってくるかもしれない。であれば、やはりキズナアイには何の落ち度もないことになる。ぼくはそう思うのだが、あなたはどうだろうか。

 ちびくろサンボにしろ、キズナアイにしろ、ある特徴を誇張された「ステレオタイプ」な造形ではあるかもしれない。しかし、ステレオタイプは即ち悪だといえるだろうか。ぼくにはとてもそうは思えない。

 そう、ちびくろサンボは絶版の闇からすこやかによみがえった。キズナアイをその闇に沈めてはならない。差別ではないものはやはり差別だと認めてはならないのだ。決して。