「「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 自ら縛られていく私たち」という記事を読みました(https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/nihonnokehai-1?utm_term=.txMZY2YZZ#.lyJxW1Wxx)。
なかなか興味深い記事だったので、偉そうに批評的に見て行きたいと思います。
まず、この記事のなかで問題として取り上げられているのは「怒り」と「冷笑」の問題です。
正当な「怒り」の声があるにもかかわらず、そのうえの次元に立ち「怒り」そのものを見下す「冷笑」的な態度を取る人がいて、それが「空気」として日本を支配しているという問題が、いくつかの例を通して語られています。それはたとえば、これや、
数日前、加計学園の一連の問題を巡って党首討論がありましたが、朝日新聞は「議論は平行線」という見出しをつけていました。中継動画を見たり、全文の文字起こしを読んだりすればすぐにわかることですが、あの討論は、野党の質問に対して誠実に答えているとは言い難い。真っ当な質疑応答ではないのだから、平行線であるはずがない。それをメディアはいつもの手癖で、「議論は平行線」と書いてしまう。この見出しだけ見たら、「ふーん、野党の質問も煮え切らなかったんだな」「この問題、いつまで続けるのかな」「そろそろ幕引きなのかな」と察知してしまう。幕引きに加担してしまいます。
あるいはこれ、
cakesというウェブ媒体の連載で、本田圭佑選手について最近書いたのですが、本田選手が日大アメフト部の一件について、「監督も悪いし、選手も悪い。(中略)このニュースにいつまでも過剰に責め続ける人の神経が理解できないし、その人の方が罪は重い」とのツイートをした。これを、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちがリツイートしているのを見て、実に今っぽいなと思いました。そうやって世の中を達観する、という仕草が流行っちゃっているわけです。
またはこれ、
阪神・淡路大震災の犠牲者への鎮魂を掲げた計画に、「木の命を犠牲にして物語に活用する人間のエゴ」など様々な批判の声が上がったわけですが、計画を支援していた糸井重里氏が、「冷笑的な人たちは、たのしそうな人や、元気な人、希望を持っている人を見ると、自分の低さのところまで引きずり降ろそうとする」とツイートしていた。さっきの本田圭佑のツイートと同様に、今っぽいな、と思いました。違和感を覚えて、憤りを表明する行為を丸ごと下に据え置く行為で、まさしく、そうした処理の仕方こそ冷笑的だと感じました。怒っている人を、怒らないボクが上から見下ろし、怒らないボクたちが賢い、とする態度。
が例として挙げられています。つまり、ある問題があるとき、その問題に対する感情的反発に同調せず、議論そのもののメタ位置に立ち、「どっちもどっち」と議論の内容を無視して語ることが「冷笑的態度」だということになるでしょう。
で、インタビューでは、
今、怒ることがどこか恥ずかしい行為とされがちですよね。「何、怒っちゃってるの?」「冷静になろうよ」という圧力がどんどん強まっています。
と語られています。しかし、そうでしょうか。ぼくの目から見ると、少なくともインターネットは「怒りの言説」ばかりに見えます。
もちろん、それに対する「冷笑的態度」の言説もあるでしょう。しかし、それはむしろあまりにも極端に感情的な「怒りの言説」が多いから支持を受けることになっているのであって、決して「怒りの言説」が少なくなっているわけではないと感じる。
たとえば政治ひとつ取っても、安倍首相に対し過剰なまでの(と、ぼくには思えるのですが)怒りをぶつけている言説はちょっと検索すればいくらでも見つかる。
「冷笑的態度」の言説の流行は、そういう過剰に感情的な「怒りの言説」に辟易した人々によって支持されていると見るべきではないでしょうか。
ここでは、仮にその「怒りの言説」の主張が政治的に正しいとしましょう。しかし、その種の言説は、致命的なまでに「怒り方が下手」な印象があります。
正当な感情を爆発させることが悪いとはいいません。しかし、「正当な怒りなのだから共感を受けてしかるべき」といった態度では、じっさいに共感を集めることができないのは当然のことではないでしょうか。
また、現実には、とうてい承服しがたい「怒りの言説」が多々あることもたしかです。
あたりまえのことですが、怒っているからといって正しいわけではない。インターネットにおいて「正義の怒り」を掲げる人は少なくありませんが、ぼくの目から見ればその何割かは正当性がない意見に思えます。
「怒っていることそのもの」をメタレベルから見下す「冷笑的態度」はたしかに問題ですが、だからといって「怒っていることそのもの」を主張の正当性の担保とみなす「感情的態度」もまた問題ではないでしょうか。
主張の内容を批判されたとき、「わたしはこんなに怒っているのに、なぜそんなに冷静に非難するんだ。それは冷笑だ!」と返すことは論理的に成立しないと思います。
つまり、当然のことながら、「怒ることそのもの」を否定できないのと同様、「冷静であることそのもの」もまた否定できないわけです。
くり返しますが、ある「怒りの言説」を、感情的であるからというだけの理由で否定する言説は問題です。
しかし、そのような「冷笑的態度」と、感情に動かされることをよしとせず、議論の内容を冷静に判断して批判的に語る、いわば「淡々的態度」を混同してはいけないと思うのです。
「冷笑的態度」はあいての主張の内容を無視して一方的に見下すという特徴がありますが、「淡々的態度」は議論の内容を冷静に精査し、必要ならば批判を加えます。
この両者には「冷静である、あるいは冷静であろうとしている」という共通点がありますが、本質的に異質なものです。
だから、「怒りの言説」を冷静に批判されたときに、反射的に「冷笑だ!」と返すこともまたできないということになると思います。
「何そんなに怒っているの?」と「冷笑」する態度が問題であるなら、それと同じくらい、「何そんなに冷静ぶっているの?」と感情にのっとって自分の言説を正当化する態度も問題です。
ぼくはそう思いますね。以上です。
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