NEWラブプラス (通常版)

 岡嶋裕史『ポスト・モバイル ITとヒトの未来図』を読んだら、『ラブプラス』の話が出てきてちょっとびっくり。サブタイトルの通り、ITの進化を通してヒトがいかに変わっていくかを予測した本なのだが、人類の未来を占う要素の一つとして『ラブプラス』が登場するのである。

 一部の美少女ゲームオタなら知っている通り、『ラブプラス』は、個別の要素を取り出せば特に新しいものではない。先駆的な作品はいくつかある。『ルームメイト 井上涼子』とか『NOeL』とか。ただ、それらの要素を洗練、完成させ、DSというポータブルメゲームマシンで楽しめるように仕上げたという点で、やはり歴史にのこる作品ではあるだろう。

 しかし、同時に『ラブプラス』は現時点でのゲームの限界をも示す作品であったと思う。いまは目新しいからおもしろがれるが、本質的にはやはり同じことをくり返すだけのゲームシステムなのである。無限の対応パターンを持つ生身の人間と違うのはそこだ。

 ぼくはべつに『ラブプラス』のような「デジタル彼女」がリアルなヒトに比べて劣っているといいたいわけではない。ただ、現時点ではやはり技術的な壁が存在するとは思う。いつの日か『ラブプラス』は生身の「恋人」を凌駕するかもしれないが、いまの時点ではまだ、人生をねじ曲げるほどのものではない。

 それでは、将来的に『ラブプラス』はどこまで進歩するのか。たとえば携帯性の強化という路線はあるかもしれない。もし手持ちのスマートフォンに『ラブプラス』が搭載されていたら、と考えるこのゲームのファンは少なくないのではないだろうか。

 ニンテンドーDSはたしかに携帯性に優れたマシンではあるが、あくまでゲーム機であり、日常的に持ち運びするアイテムではない。しかし、たとえばスマートフォンに『ラブプラス』が搭載されていたらどうだろう? 文字通り24時間を「デジカノ」といっしょに過ごすことができるようになる。

 ネットに接続することができるため、データ的な更新もたやすいし、イベントも起こしやすい。ユーザーに及ぼす力はゲーム機版を超えることになるのではないか。あるいは、対応バリエーションの強化ということもありえるだろうが、これはどこまでいっても生身の人間には敵わないわけで、不毛な努力という気もする。

 いや、仮に『ラブプラス』が生身の人間に比肩する対応力を身につけたとしたらどうだろう。その解答は『東のエデン』に出てきた万能人工知能コンシェルジュ「ジュイス」だろう。

 ジュイスは主人の言葉に誠実に反応し、かれないし彼女の望みどおりにあらゆる願いを叶える。しかし、ジュイスが魅力的なのはそれだけではない。ジュイスは個性的に「成長」していくのだ。

 「彼女」の十二人の主人はそれぞれ異なった使い方で彼女を使ったために、初め同じ人格を備えていたジュイスは最後には全く異なる個性へと進歩する。これは『ラブプラス』より魅力的な点だと思う。

 『ラブプラス』の「彼女」たちはたしかにどこまでも可愛いが、だからこそ一定の限界がある。ぼくとしてはより多様な個性をこそ望みたいものだ。ただ、もちろん、ユーザーに嫌悪感を抱かせるようだと困るわけで、さじ加減はむずかしいところではあるだろう。

 いずれにしろジュイスはひとつの新しい理想ではある。ジュイス可愛いよジュイス。しかし、そのジュイスといえどもあくまで携帯電話の向こう側にしか存在しない、決してふれることができない存在であることには変わりがない。

 この「非肉体性」は「デジカノ」の特徴にして長所にして欠点である。こればかりはアンドロイド技術が一般化するまでは変えようがない気がするが、いわゆる拡張現実技術はこの問題を変えるかもしれない。

 テレビアニメ『電脳コイル』で魅力的に描写された拡張現実=ARは、VR(ヴァーチャル・リアリティ)とはまたべつの可能性を見せてくれる最新技術だ。既に実用化されているものとしては、iPhoneの「セカイカメラ」などが有名らしい(ぼくはiPhoneを持っていないのでわからないけれど)。

 『ポスト・モバイル』によると、AR技術のさらなる進展に必要なヘッドマウントディスプレイはそろそろ普及期に入ろうとしているという。ヘッドマウントディスプレイといっても、視界を覆い尽くすたぐいのゴーグルタイプは現実に普及しそうにない。

 現在、開発が進められているのは、より簡易にARを体験できる開放眼鏡型のディスプレイだ。あらゆるものに何かしらの「タグ」が付けられ、それを眼鏡型ディスプレイで見る時代が、たとえば5年後には訪れているかもしれない。それが無理だとしても、10年後には実現していておかしくない。

 そうなったら、ARは否応なくぼくたちの生活に入り込んでくるだろう。それは「現実」の定義そのものを決定的に変えるに違いない。無拡張の「裸の現実」ではなく、コンピューターによって拡張、強化された世界こそが新たに「現実」として認識されることになる。

 リアルとヴァーチャルの聖なる結婚。たとえば観光地に行ったら、観光説明が眼鏡ディスプレイにどんどん映しだされる、といったことは、もうそう遠い未来のことではないように思える。そのとき、ぼくたちは眼鏡を通して3Dの「彼女」を見ることになるのだろうか。

 山本弘『地球移動作戦』にはそんな拡張現実対応型AIがじっさいに登場する。人々はかれらに恋し、また深い愛情を注ぐのだが、しかしかれらには本質的に「愛」という概念が理解できない。人間の一方的な片思いなのだ。これはもし人工知能の技術が決定的なブレイクスルーを迎えたなら、いつか現実になりえるテーマかもしれない。

 そのようなSF小説として、人間の情報化というテーマの最果てを見せてくれるのが、グレッグ・イーガンの『ディアスポラ』だ。この作品では、一部の例外を除く全人類は完全情報化を遂げ、地底深く埋められたスーパーコンピューターによって計算される存在と化している。

 当然、不老にして不死で、全存在をコピーして分裂することも可能だ。そうしてじっさいにかれらはある事件をきっかけに百ものコピーを生み出し、全宇宙に拡散(ディアスポラ)してゆく。人類の電脳化というアイディアを巡っては、これはちょっと究極のヴィジョンだと思う。

 ヒトの人格をコピー可能なデータとして捉えるイーガンの発想は強烈なセンス・オブ・ワンダーをもたらす。もちろん、これはSFであり、ぼくが生きているあいだにはここまでは行かないだろう。しかし、それでもあと3、40年は猶予があるはずである。『ラブプラス』がどこまで進歩するのかは楽しみだ。

 『ラブプラス』とはつまり、神話の時代から存在するピグマリオン願望の現代版であるわけだが、過渡期の産物であるという印象である。必ずもっと進化するはずだ。ぼくが死ぬとき、傍らには電子の美少女が佇んでいるかもしれない。それはありえないことではない。そう夢想するのも一興ではないだろうか。