「おれが正義だ」「おれたちが正しい」――世界中のだれもがそう言う。「おれ」「おれ以外」、「おれたち」「おれたち以外」の二項が、正義・不正義という、べつの二項に重ね合わされる。
わたしたちの心は、単純きわまるしろものである。怪人を両義的でらうがゆえに〈悪〉とみなす心性。ヒーローものという物語を、「正義と悪」の対立構造としてだけ受け取ろうとする心性。そうしたわたしたちの心性はすべて、ナチスにいいようにあやつられて、極端な迫害行為に走ってしまった、悲しいドイツ民衆となんら変わらない。
それと、もう一つ、誤解を恐れずに言うけど、この描写だと、いじめをした側がかわいそうだ。担任に理解されていないのは、いじめをした側も同様なのに、それを誰にも指摘してもらえていない。しかも、居心地の悪さを、どうにも出来ない立場に追い込まれつつある。現実では、彼女たちも平等に扱われるべきである、と思っている。ただ、彼女たちの権利は「3月のライオン」という物語では現実よりも狭められたものとなる。それは圧倒的に正しいことではあるが、事実である。その辺に私は物語の限界を感じてしまう。
たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。あえていうなら、ひなたの担任の先生にだって、ああいう人格になるにいたったプロセスがあるに違いないんですよね。実は親から虐待されていたとか。でも、それは描かれない。作家はすべてを描くことはできないわけで、必ず恣意的選択をすることになる。それが物語の限界であり、力。あとはその点に対する想像力が確保されているかどうか、という問題かと思う。
凡人の私には、ひなの至っている境地、辛くて泣きながらでも自分の立ち位置を決して曲げない、という強い心は、それ以前にどうしようもない理不尽な状況によるなどして、己の価値観を曲げたうえで失敗した(と感じた)経験に裏打ちされる種類の境地ではないか、と感じるのです。ひなたは天才でしょうか?それとも英雄でしょうか?そういう描写はありません。しかし、ひなたが決して己を曲げない理由は描かれません。そして、彼女はその、己の正義を貫き通すことによって、立場の対立する「いじめっこ」や「担任教師」の正義を踏みにじってもいるわけです。しかも、その自覚は描かれません。その自覚は物語上必要ではないものだ、という指摘はあるでしょう。この漫画の主人公は桐山くんであり、ひなたの内面を中心に描く必要はない、と。しかし、ならば、何故、ここまでひなたのいじめ問題を大きく取り上げたのか、という意図が理解できないのですよね。桐山くんの価値観も基本的にゆらぎません。TOKAさんも触れている5巻での、ひなたを恩人だと定義するところで、桐山くんの成長の要因、という意義も既に大部分果たされているのではないでしょうか。その上で、6巻の大部分を割いても決着しないほどのページを割いて、このいじめエピソードを扱うのであれば、ひなたの内面が軽視されるデメリットはメリットに対して遥かに大きいのじゃないでしょうか。そこを描くことはエンターテインメントの物語としての質を下げるから忌避したのだと、あくまで主張するのであれば、それは認めざるを得ません。しかし、同時に私は、それを描けないのであれば、物語なんてくそくらえだ、と思う。そんな物語の質に、どれだけ尊い価値があるのか、と。「ひと」と「ひとでなし」とを峻別し、自分は「ひと」であることを声高々に叫ぶことは正しい。しかし、「ひとでなし」は、ただ溜息をつくしかない。
つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。
ぼくは有川さんの作品が好きでずっと読んでいるんだけれど、どうしてももうひとつハマり切れないところがある。その容赦ない「裁きの目」に、共感し切れないのだ。たとえば、この小説のヒロインのひとりは、その電車にウェディングドレスを思わせる白いドレスで乗り込んできた女性である。彼女は実は自分を裏切って自分の「友人」と結婚することにした元恋人の結婚式から帰ってきたばかりなのだ。あえて結婚式の常識的なドレスコードを破り、花嫁よりも美しい純白のドレスを来て式に出席することが、彼女の「討ち入り」なのだった。彼女は自分を捨てた男への怒りと憎しみと、そして軽蔑を込めてそういう「復讐」をやり遂げ、そしてむなしさとともに電車に乗って来たわけなのである。この女性の描写に違和感を抱く読者は少ないかもしれない。ぼくにしても実によく描けてはいると思う。でも、なあ。この発想はどこかねじ曲がっているとも考えるのである。何といっても、取ったの取られたの、裏切ったの裏切られたのとは云っても、本来、あくまで自由恋愛のなかでの出来事のはずだ。いま付き合っているからといって、だれも相手に絶対の所有権など主張できないわけである。自分を「捨て」て「裏切った」相手や、その男を「寝とった」友人をまるで倫理的な「悪」のように見ることはおかしくないだろうか?もちろん、理性ではそうとわかっていても、どうしても怨んでしまうということならわかる。ぼくが好きな村山由佳の『すべての雲は銀の…』には、最愛の恋人を、よりによって実の兄に寝とられてしまった青年が出て来る。かれは理屈では恋愛ごとにあたりまえの倫理は持ち込めないとわかっていても、どうしても割り切ることができない。その「瑕」を延々とひきずりつづけ、兄や元恋人を怨みつづけることになる。これならわかる。この心理は理解できるのだ。しかし、この女性はそうではない。彼女は、少なくとも自分の心理のなかではどこまでも「被害者」であり「犠牲者」である。元恋人の結婚式に白いドレスを来てゆくという自分の行動に対し後ろめたさがなくはないにしても、それはただやりかえしただけだと正当化されているように見える。少なくともこの物語のなかでは恋人を寝とった女はどこまでも悪役で、こずるく卑怯な女である。それはじっさいそうなのかもしれない。たしかにその女はひどい奴なのかもしれない。しかし、ここには、それでは、そもそも、そういう人間を選んで友達付き合いをしてきた自分はどうなんだ?という問題提起はない。自分だってその「友人」を、ほんとうの友達とは思っていなかったくせに、そして内心で「ウザい奴」として見下していたくせに、会社内での立場を考えて打算の付き合いを続けてきた身なのだ。ある意味では、この展開はそういう不誠実な人間関係の当然の結末とすら云えるかもしれないではないか。違うかな?もしかしたら彼女は、だれに対してもそうやって表面的な付き合いを続けてきたのかもしれない。だからこそ、恋人も彼女を「裏切る」ことになったのではないか?暴力や暴言でも振るわれたというならともかく、普通は恋愛ごとにおいて片方が一方的に悪いなどということはないと思うのだが……。しかし、彼女の描写を追っていっても、そういう考えは一切、出て来ない。つまり、ここでは「被害者」はどこまで行っても「被害者」で、「加害者」、あるいは「イヤな奴」は、ほんとうにただの「イヤな奴」のままで終わってしまうのだ。視点を変えてみればまたべつの真実が見えてくるかもしれない、という希望は提示されない。「あるいは自分の側にも責任があったのではないだろうか?」という反省も湧いてこない。どこまでも一方通行の「怒り」があるだけだ。この一作にかぎらず、ぼくが読んだ有川浩の作品は、ほとんどが「正義の怒り」とも云うべき、暴力やハラスメントへの怒りが主題に据えられていた。それが悪いとは思わない。だが、その視野は、やはり広くはないと思う。有川浩の小説においては、視点は物語の主役になった人物にフォーカスして、揺らがない。そこでは、「主人公のまわりの迷惑だったり非常識だったりする人物への怒り」はあからさまなのだが、あるいはその視点人物も見方を変えれば何か事情を抱えているかもしれないという方向には物語が進まない。『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんがそこにいたら何と云うだろう、と思ってしまう。もちろん、だれかから「正義の怒り」をぶつけられた人間が、反省したりして心を入れ替えるという描写は時々出て来る(本作のなかにもある)。ただ、その場合も「正義の怒り」の正当性に疑いはさし挟まれない。どこまで行っても正義は正義なのである……。ここらへんがどうも有川作品を読んでいてひっかかるところなんだよなあ。実は宮部みゆきを読んでいても同じようなところでひっかかる。しかし、有川浩の「怒り」は宮部のそれよりはるかに苛烈で、だから、ずっと印象が強い。宮部作品においてはほのかな違和感で済むものが、有川作品においてはどうしても見過ごせない辛さになってしまうのだ。もちろん、どこまでも登場人物に共感して、その「正義の怒り」に同調できれば気分が良いのだろうけれど……。そこにあるものは「ひとを裁く視点」である。ぼくは思う。このひとはいつもこういう「裁きの目」でひとを眺めているひとなのだろうか、と。そこには、どうにも「赦しの視点」が欠けているように思う。ただ、これこそが「物語」の面白さであることもたしかなのだ。だからこそ、有川作品は人気がでる。ベストセラーになる。じっさい、ぼくも面白いと思うからこそ読んでいるわけだ。複雑な世界をひとつの視点にフォーカスして単純に描く「物語」の魅力と、そして残酷さを象徴するような作家であり、作品だと思う。
『阪急電車』を読んでいて、主人公の女性の行動に違和感を抱く人はそう多くはないかもしれません。じっさい、この作品はミリオンセラーになっているわけで、それだけの人の共感を集めることができた優れた小説だといえます。
とするなら、わたしたちがすべきことは決まっている。「世界は自分を中心に回っているのではない」ことに、気づかなければならない。天動説から地動説へのコペルニクス的転回を、わたしたち一人ひとりが、自分の中でなしとげなければならない。渾沌そのものである世界や他者を、「わたし」という一元的原理によって秩序づけようとするのではなく、渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する回路を、みずからの中につくりださなければならない。
コメント
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ブログ記事、面白かったです。<わたしたちが見たいのは秩序ではなく渾沌>というのは、まだ一昔前であれば頷けるところもあったと思うんですが、とりわけ今となっては古さを感じました。(2004年の本ということなので、ある程度やむを得ないとしても)
そもそも「世界は混沌である」というのも一つの秩序化であり、他の秩序と同等の地平で評価されるべきものだと思うのですが、たとえば先日のLDさんのマインドマップを見れば、わたしたちが見たいのはただの「渾沌」ではなく、むしろその先ではないかと思えます。
ただ、たとえば現在でも、Twitterの「左」と「右」のやりとりなどを見ていると、「もう少し今自分が立っている秩序から離れて見てみようよ」といいたくなる気持ちもわからないでもないですが……。
(ID:11233310)
色々とタイムリーな話で、とても良かったです