あの事件をありていにいうなら、どうなるか。受難劇かと訊かれたら、多少は、と答えるしかない。奇談? もちろんだ。恐怖劇? 惜しい。愛憎劇? そりゃもう。ブラックコメディ? それは見方しだいだろう。まあ、そういったもののごちゃまぜだ。一九八〇年七月十七日の午後に、あの屋敷で起こったことについては、奇妙奇天烈といっておけば、まちがいない。では、話に入るとしよう。これからはじまるのは、欲と冷血、恐怖と略奪、サディズムと殺人――そしてアメリカ式の愛の物語だ。
リチャード・マシスンの名前をご存知だろうか。直接には知らなくても、スピルバーグが映画化したサスペンス小説『激突!』の作者といえば、ああそうか、とうなずかれる方も多いかもしれない。
SF、ホラー、ミステリ、サスペンス、とジャンルを股にかけて活躍する娯楽小説の巨匠である。『奇術師の密室』は、そのマシスンが齢七十を超えて書き上げた本格推理小説。
普通、どんな作家でも、歳を取ればそのしるしが作品にもあらわれるものだが、どうしてどうして、本書を読む限り、マシスンの手際に衰えは見えない。それどころか、この作風の若々しさはどうだろう。全編稚気と諧謔に満ち、最後の最後まで展開を予想させない、その技巧はまさに魔術的。巨匠、貫禄の一作である。
本書の語り手を務めるのは、かつては「偉大なるデコラート」として一世を風靡した奇術界の大物、エミール・デコラート。ありとあらゆる騙しの技をきわめ、満場の聴衆を手玉に取ったかれも、いまは脱出マジックの失敗がたたって植物人間の身の上。
意識は曇りもなく鮮明だが、指一本動かすこともできない。この老デコラートの目の前で、凄惨な殺人奇術の幕が開く。
主な登場人物は、老デコラートを含めてわずか6人。かれの名前を継いだ息子マックスと、マックスの不貞な妻カサンドラ、カサンドラの不倫相手でもあるマネージャーのハリー、カサンドラの弟ブライアン、そして保安官のプラム、それですべてである。
事件はマックスがハリーを呼び出してかれをいたぶるところから始まる。ハリーが自分を裏切っていることを知ったマックスは、得意の魔術の技でかれを翻弄し、あげくの果てにカサンドラの目の前で毒を飲ませる。
抵抗も虚しく倒れるハリー。カサンドラは保安官を呼び、マックスを告発するのだが、かれは余裕綽々、たしかにハリーを殺したのは自分だ、そしてその亡骸はこの「マジック・ルーム」のどこかにある、見つけ出してみせろと挑発する。
死体を持ち去る時間がなかった以上、その言葉には信憑性がある。カサンドラと保安官はさっそく死体さがしを始めるが、敵は奥義をきわめた天才奇術師、場所はさまざまな仕掛けがほどこされたマジック・ルーム、かれらはマックスの掌の上で踊らされることになる。
はたしてハリーのからだはどこに隠されているのか? そしてマックスの真の目的は何なのか? すべてを目撃しながら口をはさむことができない老デコラートの目の前で、事件は予想外の方向へ転がりつづけていく。
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