前回の話の続き。前回は、女性たちの真似をしてクオリティ・オブ・ライフを上げようと試みているというところまで話しました。これはほんとうのことなのですが、意外にこういう人はまだ少ないのかもしれません。

 まあ、たしかに南青山のオサレなレストランはカップルばかりでしたし、『ドラえもん』の映画をひとりで見に行ったら子連ればかりでした。

 世の中にはどうやら「男ひとりで入るところ」、「女ひとりで入るところ」、「男同士で入るところ」、「女同士で入るところ」、「男女で入るところ」、「子連れで入るところ」といった場所柄の「常識」があるようです。

 いまはもうそうでもないかもしれませんが、昔はラーメン屋なんかは女性ひとりでは入りづらかったようですね。

 フェミニズム的にいうとジェンダーの問題ということになるのだろうけれど、ぼくはほぼ無視しまくっているのでまったく気になりません。

 ひょっとしたら周りからは「あの人たち、男同士でこんな場所に来ているわ。場違いだと気付かないのかしら。ひそひそ」とか噂されているかもしれませんが、まあ、べつにいいんじゃね? そういうジェンダーにもとづく常識なんて、どんどん壊していくのがいいと思いますね。

 女性だってひとりでラーメンや牛丼を食べたいこともあるだろうし、反対に男性だってスイーツを食べたいこともある。それが変な目で見られるということは、それこそがおかしなことなんじゃないかと。

 じっさい、「男はこういうものだ」とか「女はこういうものだ」みたいな社会的な定義はほとんどあてにならないと思います。それらは大抵、「だからいまのままでいい」と開き直るために編み出されたものであるに過ぎません。

 脳科学的に見れば男性の脳も女性の脳もほとんど差がないらしいんですよね。だから、男性はこう、女性はこうというような特性は、結局、社会的に形成されたものに過ぎないと思うのです。

 ちなみに、そういう特性は生まれつき性別によって決まっているのだ、という考え方をジェンダー理論の用語で「本質主義」と呼び、その界隈では必殺技のように使われているのをよく見かけます。

 「それは本質主義だ!」とびしっと指さして指摘するとかっこいいとか良くないとか。

 で、よく「男は論理を求め、女は共感を求める。故に男は結論のない雑談が苦手だ」みたいなことがいわれるわけですが、これもつまりは教育の問題だと思いますね。女性はそういうふうに育てられているからそういう特徴が見られるようになっているというだけのこと。

 その証拠に、ぼくのまわりのおじさんたちは結論のない雑談を何より好んでいます。そう、ぼくの友人たちはおしゃべりな人がほとんどで、逢うととにかく話すのです。

 最近はわりと高級店の個室を借り切ったりもするようになりましたが、料理やお酒に舌鼓を打つ一方で、やっぱり話は止まりません。というか、そもそも周りに邪魔されることなく話をしたいから高級店を選ぶのですね。

 さらにそこからたとえばカラオケへ場所が移ったとしても歌ったりはしません。ただひたすらしゃべるだけ。まさに女子高生もかくやというほど雑談に熱心です。

 先に書いたように、よく女性の話は「落ち」がなく、それ故に延々と続くが、男性は話に論理的決着を付けようとする、それは実は脳の構造の違いが原因なのだ、いや原始時代の生活習慣の影響なのだなどといわれていますが、あれは嘘だと思いますね。

 それがほんとうなのだとすれば、ぼくのまわりのおじさんたちはほぼ中身は女の子です(笑)。皆よくしゃべるんだよなあ。ぼくもあまり人のことはいえないけれども。

 ペトロニウスさんとかLDさんとか、ラジオでもたしかによくしゃべるのだけれど、リアルで逢うとさらにもっとしゃべりますからね。あれはどういうことなんだろうな。

 ひょっとしたらラジオで話しているときは手足に鉄製のパワーアンクルを付けていて、それを外すと戦闘力が上がるのかもしれない。

 そういうわけで、ぼくは「男性はこう、女性はこう」という決めつけのことはまったく信じていないのですが、そうはいっても現実に統計的な「男性らしさ」、「女性らしさ」の偏りは存在することは事実。

 それがたとえ社会において後天的に身に着ける特質だとしても、ほんとうにあることは間違いありません。まあ、やっぱり女性は牛丼屋にひとりでは入りづらいとか、そういうことはどうしてもあると思うんですよね。良し悪しはともかく。

 しかし、そういうジェンダーの桎梏も、だんだん緩んできているように思います。何といってもいまは、あるいは建前だけかもしれないにせよ男女同権の世の中、「男は外で働いて、女は家を守るべき」というようなこという人は、皆無ではないにせよ、格段に減っているでしょう。

 つまり、男性も女性も、しだいに変化しているということです。女性が社会に進出するようになり、ある意味ではかつての男性にポジションにあることは周知の事実だと思いますが、男性もおそらくは女性に近づいているとぼくは思う。

 というか、そうあるべきなのではないか、と考えます。というのも、前回の記事でちょっと触れたように、何気ない日常を楽しむことにかけては一般に女性のほうがはるかに優れた蓄積を持っていると思うのですね。

 たとえば女性たちはカフェでコーヒーとケーキだけで楽しく時間を過ごすことができるけれど、男性は同じ真似ができなかったりする。平均的にいって女性たちのほうが余暇を豊かに過ごすことが上手なのだと感じます。

 いや、ぼくのまわりの人たちはそうでもないかもしれないけれど、それはやっぱり「例外」的だと思う。その証拠に、仕事を失い、また伴侶に先立たれた男性はすぐに亡くなってしまうのに対し、女性はひとりになっても長生きしたりします。

 これは統計的なデータとしてちゃんと結論が出ているようです。いま、経済成長がかなりのところまで行き詰まってしまった日本社会において、「男らしく」競争して勝ち組になれる確率はかなり低くなっています。

 つまり、ただ「成長」を目指すだけではなかなか幸せになれない時代なのです。だったら「成長」ならぬ「成熟」を志し、一日一日をより楽しく生きることに専念するのも悪くないことなのではないでしょうか。

 そして、そういう人生を志向する時、手本となってくれるのが女性たちの生き方だと思うのです。「競争」ではなく「協調」を、「成長」ではなく「成熟」を求め、あたりまえの日常を少しでも楽しく生きようとするとき、女性たちは男性の「先生」になってくれるでしょう。

 まあ、そういう態度を良しとしない頭の固い男性もいるかもしれませんが、現に「日常系」といわれる漫画の主人公はほとんどが女の子ですよね。

 ああいう物語を見て心癒やされている男性たちは、内心ではやっぱり女性たちの、いまのところ女性にしか許されていないかに見えるライフスタイルをうらやんでいるのではないでしょうか。

 少なくともぼくはうらやましい。ぼくも『ゆゆ式』みたいな日常を……いや、さすがにそれは送りたくないかもしれないけれど、『けいおん!』みたいな生活は送りたいぞ。

 じっさい、ちょっと気をつけて時間を過ごすことを覚えたなら、「あたりまえの日常」は素晴らしい輝きを放ち始めます。それはほんとうは「あたりまえの日常」などというものは存在せず、時は仮借なく過ぎていき、すべてを変えていくからです。

 「あたりまえ」が「いつまでも続く」とは、単なるぼくたちの思い込みに過ぎないのですね。そのことは『灰と幻想のグリムガル』を見てもわかりますし、『よつばと!』においては素晴らしいセンス・オブ・ワンダーとともに描写されていることです。

 平凡な平穏のなかにこそ黄金の輝きはある。男性たちはこれからそのことを学習していかなければならないのだと思います。暖かで和やかな日常や、他者による理解と共感を求めているのは女性たちだけではない、男性だってほんとうは変わらないのですから。

 とはいえ、それでは変わり映えのしない「出口のない日常」を楽しむにはどうすればいいのか? そのためには生活の三大基礎である「衣・食・住」と、そして「趣味」を充実させていくよりほかないと思います。

 このブログでぼくが「衣・食・住」をテーマにした記事をいくつか書いているのはそのためです。つまりは、すべては「成長が行き詰まった成熟社会において、いかにしてクオリティ・オブ・ライフを向上させ、センス・オブ・ワンダーを獲得するか?」というテーマであるわけなのですよ。

 いい換えるなら、大人になってなお『よつばと!』のよつばのように新鮮な発見に満ちた人生を送るにはどうすればいいのかということ。

 それはおそらくは「脱男らしさ」の道であり、そしてある意味では「脱オタクらしさ」であるかもしれません。

 仮にオタクでありつづけるとしても、少なくともさまざまな「知識自慢」や「センス自慢」を繰り返し、「縦の関係」を作ろうとしてきたかつての男性オタクたちとは違う意味でのオタクにならなければなりません。

 それがどんなものなのか、どんな名前で呼ばれるべきなのか、その答えをぼくは持っていませんが、ぼくがたとえば『妹さえいればいい。』という小説を好きなのは、そのテーマを鋭く実現しているフロントラインの作品だと思うからなのですね。

 そういうふうに捉えてもらえると、ぼくが単発で書いてきた記事も、実は色々と地下水脈で繋がっているのだということがわかってもらえると思います。

 そして、そういうふうに読めば、このブログも少しは楽しいものに思えて来るのではないか、と。まあ、そういうわけで、ぼくは最高の人生を実践しながら模索しているのでした。

 ああ、あとは恋人か伴侶がいればいうことなしなんだけれどな! 毎度同じ落ちですが、まあしかたないでしょう。

 現実は、きびしい。