弱いなら弱いままで。

非モテの悩みはモテによって解決できない。

2017/04/05 03:52 投稿

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 ども。ここ数日、てれびんといっしょに自動車で旅行をしたり、家を訪ねて来た甥っ子や姪っ子と遊んだりしていてまったく生活に余裕がありませんでした。ようやくすべてのタスクが終わったのでちょっと長い記事を書きたいと思います。

 ちなみにぼくはわりに子供が好きで、ふしぎと子供とはすぐに仲良くなれる人だったりします。女の子にはまったくモテないけれど子供には不思議なくらいモテるんだよね、これが。

 じっさい、旅行の前日にてれびんの知人の家に寄ったときもあっというまにそこの家のお子さんと仲良くなってしまい、うーん、これはちょっとした才能なのではないか、などと思ったりしました。

 子供にはかなり人見知りする子もあまりしない子もいますが、一様に見知らぬ大人に対する警戒心は持っているものだと思うのです。だから、それをいかに解いていくか、ということが子供と向き合うときのひとつの課題となる。

 でも、そこで「自分になつかないなんてつまらない子だな」などと考えてしまうと相手はなおさらなつかなくなるでしょう。まずはその子と対等に向かい合って、自分は敵ではないし、上位者でもないのだというメッセージを伝えていくことが大切だと考えます。

 子供相手に対等の関係などというと、いぶかしく思う人も少なくないかもしれません。しかし、ぼくは相手が三歳だろうが五歳だろうが、同じ人間として対等である、と考えます。

 ぼくはよく「お子様に遊んでいただく」といういい方をするのですが、ぼくとしては「子供と遊んであげる」といった上から目線的な感覚はあまりなく、あくまでいっしょに楽しんで遊んでいるだけなのです。

 このあいだ、小学六年生になるいとこの娘さんをプールに連れて行ったら「え、連れて行ってくれるの?」といわれて、なるほどなあ、大人が子供をプールに連れて行ったら、子供から見たら「連れて行ってくれる」という感覚になるのだなあ、としみじみと感じました。

 ぼくとしてはいっしょに遊びに行くという程度の認識だったんですけれどね。いやー、ぼくのような子供っぽい男でも、子供から見たらやっぱり大人なんだなあ、とふしぎな気がしました。あたりまえのことなのかもしれませんけれど。

 それにしたって昨日までのぼくは姪っ子のしもべみたいな地位でした。まあ、ことほどさように、子供と大人の間にはある種の権力関係、パワーゲームともいうべき「力の天秤」が存在しています。

 それはたいてい大人側に傾いているわけですが、これが大人同士となると、どちらに権力があるかは微妙な問題になります。しかし、本来、どんな人間関係にもこの権力関係は介在しており、人は相手は自分より上か下かということを無意識的にせよ気にしながら関係を築いているのです。

 このことを端的にテーマにしていたのが作家の栗本薫です。栗本の特にボーイズラブ小説(より正確にはJUNE小説)は、そのすべてが人間同士のパワーゲームを主題にしています。

 そのことが最も端的に表れているのはおそらく彼女がデビュー前に綴った長編小説『真夜中の天使』でしょう。これは、今西良と滝俊介というふたりの主人公の権力関係がしだいに逆転していくという展開の作品です。

 初め、圧倒的弱者であり支配される側であった今西良が、いかにして強者に、そして支配する側になっていくかを描いた小説といってもいい。ここで、栗本は強いものが弱く、弱いものが強くなっていくという反転のドラマツルギーを劇的に描き出すことに成功しています。

 しかし、ぼくにとってこの小説である意味では本編以上に印象的だったのは、あとがきの一節です。そこで、若き栗本はこんなふうに書いているのでした。

 ただ私にとってそのとき切実に知りたかったこと――それは、一人の人間が、どうしたら、ほんとうに孤独ではなくなるか、ということでした。

 これが、これこそが、作家栗本薫がその生涯と全作品をかけて追いかけたテーマである、といい切っていいと思うのです。どうしたらほんとうに孤独ではなくなるのか。どうしたら、人の魂の孤独は癒やされえるのか。

 これはつまり、ペトロニウスさんがよくいうところのナルシシズム(閉ざされて空転する心)はいかにして解決されるかという問題です。この、ナルシシズムとその解決という大テーマを、栗本薫は生涯にわたって模索していました。

 そして――このクエスチョンのアンサーとなるものが、アドラー心理学でいうところの「共同体感覚」だとぼくは考えるのです。

 共同体感覚とは何か。「哲人」と「青年」の対話という形でアドラー心理学について詳細に書いてベストセラーとなった『嫌われる勇気』から引用してみましょう。

哲人 前々回だったでしょうか、他者のことを「敵」と見なすか、あるいは「仲間」と見なすのか、という話をしましたよね?
 ここでもう一歩踏み込んだところを考えてください。もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち――つまり共同体――のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

(中略)

哲人 アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。
青年 はっ?
哲人 つまり、われわれが「共同体」という言葉に接したときに想像するような既存の枠組みではなく、過去から未来、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだと提唱しているのです。

 これです、これ。すべての人間、そしてこの世の森羅万象すべてが「仲間」であり、そしてそこに「自分の居場所がある」という感覚、それを抱くことができたとき、人はほんとうの意味で孤独から解放される。それが、アドラー心理学とは独立して、栗本薫がたどり着いた結論だったとぼくは思っています。

 そのことが端的に表現されているのが、『グイン・サーガ』におけるアルド・ナリスの死の場面です。人としてきわめて優秀な麗質に恵まれ、そのことにプライド(優越感)を抱いていたナリスは、あらゆる肉体的能力を失い、ほとんど廃人寸前となって初めて、人を信じ、人に頼ることを覚えます。

 そして、それによってそれまで「敵」であると信じていた人々が、実は「仲間」であったことを悟るのです。『グイン・サーガ』第65巻で、かつての能力のほとんどを奪い去られたアルド・ナリスは、部下を死なせてしまったことを悩む黒太子スカールに対し、こう語ります。

「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」

「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物ものあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」

 信頼。これこそが、人を孤独地獄から救うための唯一のキーワードなのではないでしょうか。まわりのすべての人間が、否、人間以外の存在までも含めたこの全宇宙が、自分の「仲間」なのだと信じること。それができたとき、人は孤独から自由になる。

 これは『嫌われる勇気』には記されていないことですが、ここで重要なのは、あくまで「仲間」であって「味方」ではない、ということだと思います。

 「味方」とは「敵」の対義語ですが、「仲間」はそうではありません。「敵/味方」といった二項対立的な発想を飛び越えた概念なのです。

 この世には、たしかに自分の敵もいる。味方もいる。しかし、その敵も味方も、すべて同じ世界に生まれ、同じように悩み、苦しみ、歓び、生きる「仲間」である、と捉えること。それが人が孤独から解放されるために必要な感覚なのだとぼくは考えます。

 それでは、具体的にどうすればその「宇宙のなかに自分の居場所があるという感覚」に至ることができるか。『嫌われる勇気』では、そのための具体的な方法が記されています。

 自己への執着(self interest)を他者への関心(social interest)に切り替えていくことです。そのために必要なのが「横の関係」を作るということだとされているのですが、「縦の関係」を前述した「権力関係」だとすると、「横の関係」とは「非権力関係」だということができるでしょう。

 人との間に「一切の権力が介在しない、対等の関係」を作り、それを段階的に広げていくことによってやがて「共同体感覚」に至る。それがアドラーが示した階段なのでしょう。

 しかし、人と人との間にはどうしても権力が介在しがちです。人はだれかより自分のほうが優れていると感じて優越感に耽り、だれかより劣っていると感じて劣等感に耽ります。

 こういった優越感や劣等感の問題が最も表出するのが恋愛です。以前、「恋愛工学」について話をしましたが、恋愛工学とはまさに恋愛において自分に有利な権力関係を築くためのその方法論であるといえます。

 だから、ただ「モテる」ためであれば恋愛工学はまったく間違えていないのです。女性にモテたいのなら、女性より上手に立てるポジションを獲得し、そのうえで「優しくしてあげる」ことは有効です。

 つまり、強者となって弱者に恩恵を垂れるわけです。その際、重要なのは自分が強くなれるポジションはどこであるかを正確に理解し、そこで勝負することです。

 もし、相手があらゆる面で自分より強者であればその地位を下げればいい。恋愛工学が「高学歴の女はDisるべし」と説いているのは、ある意味では論理的な必然だといえるでしょう。

 こういった権力獲得の方法論を身に着けた上で、ひたすらトライアル&エラーを繰り返せば、たしかに「モテる」ことはできるに違いありません。しかし、そうやって「モテた」ことによってその人の孤独が救われるかというと、相当に怪しい。

 そう、それで解決することなら、アルド・ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、悩む必要はなかったのです。この恋愛工学と同じ理屈を、極限的な形で実践したのが岡田斗司夫さんでしょう。

 かれはじっさい、9人の女性と同時に関係を持っていたといいます。ただ、それにもかかわらず、恋愛工学にしろ、岡田さんにしろ、非常に非モテ的です。それは結局、かれらが人との間に「縦の関係」しか築けない人種だからでしょう。

 そう、非モテの問題は究極的にはモテるかどうかとは関係ないのです! どんなにモテても本質的にはまったく解決しないのですね。

 非モテもまた、その孤独を癒やすためには、人との間に「横の関係」を築くしかない。「縦の関係」をどんなに築いたところで、むなしいわけです。

 たとえばペトロニウスさんあたりは、「縦の関係」ならいくらでも作れる人だと思うのですが、本人を見ているとそこには価値を見いだしていないことがよくわかる。

 あくまで重要なのは対等な「横の関係」であることをわかっているのだと思います。もちろん、「縦の関係」で充足する人もいるでしょう。しかし、世界を縦に認識する限り、どこまでいっても上には上がいるわけで、劣等感から解放されることはできません。

 非モテの人がしばしばミソジニー(女性嫌悪)に走るのは、まさに世界を縦に見て、女性を自分より下の存在と認識しているからでしょう。非モテの人は、女性を一個の独立した人格ではなく、「自分に奉仕するべき存在」と見て、その義務を怠っているといって責めます。

 これこそまさに『嫌われる勇気』で書かれている自己中心的なライフスタイルそのものです。非モテが苦しいのは、ただモテないからではなく、自分を男性社会の序列において下位の存在と位置づけるからなのです。

 恋愛工学と非モテは、コインの裏表のような存在であるに過ぎません。どちらも世界を縦の認識(権力構造)で見ていることには違いないのです。

 それでは、どこまでいっても共同体に奉仕するという感覚にはたどり着けません。岡田斗司夫さんが、二村ヒトシさん的にいうなら「キモチワルイ」のは、かれの自我がナルシスティックに閉じていて、ほかのすべての他者を「自分に奉仕するべき存在」と見ていることが見え透いているからでしょう。

 もちろん、それは倫理的な悪ではありません。そして、「壁ドン」が流行ったりするところを見ると、女性たちのなかにもまた世界を縦に認識し、それこそが恋愛であると考える人が大勢いそうではあります。

 ぼくはそういった認識が間違えているとはいいません。しかし、それではほんとうの意味では孤独の檻から外に出ることはできないとは思うのです。

 共同体感覚――ただひとり、己の孤独を突き詰めるのではなく、あるいはだれかとふたりきりの「愛」に閉じてしまうのでもなく、どこまでも自分を開き、森羅万象に心から共感するとき、人は初めて孤独ではなくなる、そういうことなのではないでしょうか。

 むろん、そのとき、もはや「特別な個人」は存在しません。どれほどの美貌や才能に恵まれた者も、まったく恵まれなかった者も、完全に対等なのです。つまり、ある意味ではすべての存在が「平凡」で「普通」な存在として認識されることになるといえるでしょう。

 『嫌われる勇気』には、まさに「普通である勇気」という言葉が登場します。これこそ、アルド・ナリスが死の直前に手に入れた勇気です。

 そして、この勇気を発揮したことによって、あれほど地位と美貌と才能に恵まれ、それにもかかわらず不幸で孤独であったナリスは、幸福に死んでいくのです――すべての「仲間」たちと同じ、平凡なひとりの人間として。ぼくにとって、『グイン・サーガ』とはそういう物語です。

 長くなりましたが、ここらへんでこの記事を終わりにしたいと思います。お読みいただいてありがとうございました。この話はまだ続くかもしれません。 

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