どんとこい、貧困! (よりみちパン!セ)

 先日、年収100万円で豊かな生活を送っている人物の記事を書いた。世間的には「貧乏」と称される環境のなかで、楽しく面白く生活しているさまは衝撃的なまでに新鮮だった。乙武さんの「障害は不便だが不幸ではない」をもじっていうなら、貧乏は不便だが、必ずしも不幸ではないのかもしれない。

 しかし、だからといって貧しさを甘く見ることもできないことももちろんだ。この問題は「貧乏」と「貧困」の違いとして考えることができる。湯浅誠の『どんとこい、貧困!』によると、「貧乏」と「貧困」には決定的な違いがある。

 さっき“溜め”について書いたけど、「貧困」は“溜め”がないこと、つまり単にお金がないだけじゃなく、頼れる人間関係や、「やれるさ」という前向きな気持ちをもちにくい状態を指す。逆に言うと、たとえお金がなくて「貧乏」でも、周囲に励ましてくれる人たちがいて、自分でも「がんばろう」と思えるなら、それは「貧困」じゃない。それが「貧乏」と「貧困」のちがいだ。

(中略)

「脱サラして、田舎で暮らしてます」という家族がテレビに出ることがある。都会の息苦しい生活から抜けだし、自分たちで田畑を耕しながら、趣味を仕事にして生計を立てている。「ウチの月収は五万円くらいしかないんですよ」と笑っている。この人たちは、たしかに貧乏かもしれないが、田畑でとれた作物を食べ、好きなことをやって生活して、子どもは裏山で駆けまわって、地元の人たちと交流があって、それなりに楽しそうに暮らしている。そういう人たちはいる。貧乏だけど幸せということは、現実にありえる。
 貧困はちがう。

 (中略)

 貧乏とちがって、「貧困だけど幸せ」ということは、貧困という言葉の定義からしてありえない、と私は思っている。

 「貧困だけど幸せ」はありえないと湯浅はいい切る。じっさいに多くの貧困者を観てきたひとのいうことだけに、その言葉は重い。

 結局のところ、金銭というものはひとがもっている無数の資産のなかのひとつに過ぎないのだ。湯浅が「溜め」と呼ぶ関係資産や意欲資産、時間資産に知識資産、さまざまな能力もひとつの資産といえるだろうし、もちろん健康もひとつの資産だろう。

 先述の年収100万円の人物はこれらの資産を潤沢にもっていた。だからこそ、金銭的に「貧乏」ではあっても、決して「貧困」ではなかったのだ。

 これらの「見えない資産」は金銭以上にひとの生活の豊かさを決定づける。そして、「見えない資産」には「見えない格差」が存在しているのだ。ひとの幸福も豊かさもただお金だけで決まるわけではないということ。

 あなたから見て「努力を怠っている」ように見えるひとは、実は「そうでしかあれない」状況に置かれているのかもしれないと想像してみよう。そのひとはあなたと違って「見えない資産」をもっていなかったのかもしれない。「見えない格差」をきちんと認識し、ひとがそれぞれ違う状況に置かれていると知ることが、格差解消への第一歩だ。