ビュロ菊だより

ビュロ菊だより 第九号 菊地成孔の一週間

2012/12/13 19:00 投稿

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「菊地成孔の一週間」
第9回<(笑)からwwwwへの自己更新。それはとりあえずどうでも良い。それよりも先に一人称が変わってわたしの登場12月上旬>
  

      はじめに

 

   <一人称とは何か?/キャラ小論>


 

 僕は僕などと言わない。僕が僕というのはこの日記でだけである。日常生活は言うまでもなく、沈思黙考している時の内言でも、僕は僕を使わないし、著作を始めとした、総ての文筆活動に於いても(調べた訳ではないので、厳密ではないが)06年以来一切使っていないと思う。



 

 今、僕が使う一人称は、筆記では「ワタシ」が95%、「私」が5%。そして、発話ではフォーマル部門とカジュアル部門とに分けるとして、フォーマル部門は「わたし」「アタシ」が25%ずつ、カジュアル部門では「オレ」がほぼ100%であって、僕の生活上、僕はこの日記以外どこにもいない。



 

 「小生」「拙者」「オイラ」「自分」「アチ」「ワイ」「おいどん」等々は、人生いくら先の事は解らないとは言え、現在の心境に正直に言う限りにおいて、おそらく一生使わないと思う。「紳士淑女の皆様、今夜はおいどんの公演に起こし頂きありがとうございます」はかなりヤバい。5回も続ければ誰も笑わなくなるだろう。



 

 言うまでもなく、一人称は人格全体の突端であると同時に、使う事で人格を召還する。だから逆に、突如として、あるいはだんだんと時間をかけて、僕の人格がまったく変わったら(誰でも変わり得る)僕は日々自分の事を「ミー」とか言い出すかもしれない(「ユー、ミーにもそのワインを頂戴」「ミーがスパンクハッピーをやってた当時の話でおますか?」)し、人格が変わっていないまま、無理矢理この日記の一人称を、例えば「拙者」に設定すれば、音楽理論に関する自分の考えも行動も、随分変わると思う(「拙者、調性なる同一性の曖昧さを、人の心に照らし、人の心こそが曖昧なのであると思ひ至るに、音楽とは如何に、教育とは如何にと、夜を徹し、杯を酌み交わしては徒弟共と無性に語り明かしたく思い候」)。



 

 「オマエの人格が不安定なんだよ。ヒステリーだろ」と言われそうである。そしてそれは正しい。しかし、それを言ったら人類全員がそうだ。僕が言いたいのは、「たかが」一人称の変更で、人は単なるギャグを超えた(さっきからギャグしか言ってないが)、様々な味わい深い経験をするという事だ。



 

 例えば僕は、随分と長い間、僕だったので、僕が今いま自分を僕というのは、近過去にタイムスリップした気分でもあり、そして、その気分は実はさほど良くない(もうクソ最悪。とは言わない。懐かしい甘さはあるが、が、あまり良くない甘さだ)。



 

 これについては後述するとして、僕についてもうひとこと。それは、同じ僕という文字と発音でも、意味(ニュアンスと言った方が手っ取り早いかもしれない)が全く違う場合がある。余り一般的なものではないので説明が必要かも知れない。



 

 僕の知人と言わず、知己なき有名人と言わず、僕が採用したいなと思う、「僕」そして「○○君」の使い方がある。



 

 ニコニコ動画ユーザー(というか、「ビュロ菊だより」の購買者)に上手く伝えられるか自信が無いのだが、非常にシンプルに言って、それはB系が使う「僕」と「○○君」の事だ。以下「B僕」とする。



 

 例えば、パーカッションの大儀見元は「オレ」と「菊地(或は外山。等々)」という時もあるが「僕」と「菊地君(或は外山君。等々)という時がある。また、ジ・アウトサイダーの幾人の主要選手も同じで「オレ最高の状態に仕上げてくるから、幕(大輔。という選手がいる)、オマエもそれだけの覚悟でこいよ。まあ、どっちにしたって、オレがオマエを潰すだけだけどな」という時と「幕君、僕も頑張るんで、幕君も頑張って。まあ、潰すけど」という時がある。



 

 


 B系で解りずらかったら、チーマー系と言えばニュアンスがより明確に成るかも知れない。「オレ」と「○○(呼び捨て)」というのは、荒い言葉というより、カジュアルな一般性であり、実のところ荒さはない。敢えての「僕」と「○○君」によって醸し出されるBムードがあるのだ。



 

 このニュアンスが通じるなら「僕が4拍子をキープするからさあ、坪口くんはさあ、それを7で割ってね」というのはとても良い。何か大儀見が言ってるようだ(とういうか、最初に大儀見を凡例であるかの如く紹介したが、実は大儀見は、僕の共演者の中では、この使い方をする唯一者なのである)。



 

 とはいえ「B僕」は、少年性と癒着しており、今や50にならんとする大儀見が使うのは、僕と大儀見と同い年で、20代からの知り合いであるという特性によるものだし、ジ・アウトサイダーの選手を始めとするB系一般は、実際に少年である(妻子持ちだったりするが)。



 

 しかし「無味無臭の僕」を使っていて、改めて「B僕」を使いはじめるというのは物凄く渡りづらい。



 

 今最も近い感じは、キラースメルズ菱田エイジ氏(因に彼は一人称に「B僕」を使う)が僕を「先生」と呼び、僕が彼を「菱田さん」と呼ぶ事であるが、この絶妙なニュアンスが通じているかどうかはなはだ疑問だ。先生呼ばわりも、さん付けも、ともに極めて一般的だからである。僕が「菱田さん」と呼ばれるとき、他の生徒さんを「○○さん」と呼ぶのとはまったくニュアンスが違う(音はまったく同じだが)。これを「Bさん」とするならば、だから菱田さんが年中ビーサンを(大変失礼しました)。


 


 僕が僕を使う上で、どうしようかな、止めよっうかなーと思っている理由は二つある。ひとつ目は、前述の「久しぶりの僕」の居心地の悪さで、とはいえ「僕の帰還」は致し方ない、久しぶりで日記を公開で書く様になったからであって、「ワタシ」で書くと、そもそも対人的になる。こういう感じだ。



 


 

 ○月○日(○曜日)



 

 いやあどうもどうも。この日はめっきり寒くなりまして、起きて最初にした事が「あ、さぶ」と口走るという。そんな感じでですね、その後ワタシ、ジャズジャパンのインタビューに行きました(寒いまま)。この雑誌、ほとんどの読者の方がご存じないと思うのですが、要するに「元スイングジャーナル」でして、こっれがですなあ、



 


 

 と、要するに「いつもの調子」なのだが、この調子で日記を毎日毎日2000文字。というのは無理だ。



 

 という訳で、公開用の日記というアイテムが文体や一人称を召還する形で「僕」となったが、何か内向的な青年みたいな感じに成ってきて、自分で決めたくせに、あちゃー、なーんか違うな。と思い始めてしまったのである。49にもなって「○月○日。僕はこう思った。そして僕は」もないモンだろう。所謂「キャラが違う」という奴だ。



 

 ふたつ目は、派生的な問題なのだが、過去にしがみつく人々にとってウエルカムだからである。端的に言うと「スペインの宇宙食」の一人称の80%が僕で、スパンクハッピーの頃、僕は僕を僕としていた。



 

 「しがみつき(つかれる)」問題も、ジョン・レノンあたりでとどまっていれば良かったと思う。彼が子育て休暇を終え、セントラルパークを歩いていると、、、、という、有名な動画(テレビ番組)がある。



 

 もう、若者がわーっと寄ってきて、金網にしがみつき(金網の外を歩いている)全員が同じことを言うのである「なあ、ビートルズはいつ活動再開するんだ?」。余りに同じ事ばかり言うので(ビートルズの曲を歌い出す者もいた)最初は「しないよ」と苦笑していたジョン・レノンが、やがて苦渋に満ちた顔で「いつかわからない」と答え始める。あの映像はせつない。その後すぐ、射殺されるから。ではない。



 

 あれから幾星霜、この現象は急激に一般化し(言うまでもなく、ブログや動画サイトの発達によって)、僕のような者にでさえ降り掛かってくる。



 

 明日ダブセクステットのライブだ。と曲順を決め、意気を上げていると、「菊地様、スパンクハッピーのファンです」と、以下延々とスパンクスが好きだと書いてあって「これからも頑張ってください。いつかスパンクハッピーのライブに行きます」と締めてある。ビートルズの類例に出来る訳が無い。ビートルズは凄過ぎた。スパンクハッピーは特に凄過ぎない。



 

 つまり、一般化したのである。これほどあらゆる人々が、「過去へのしがみつき(つかれる)」を億劫に思っている時代は無いと思う。そのうち、自分の赤子の頃の写真を見る時のメンタリティは、微笑みから苦悩に変わるだろう(「ああ、なんで自分は、育ってしまったのだろう」)。「ブリキの太鼓」である。



 

 それよりも何よりも、「僕」を使うと「僕ら」を使わないといけなくなる。「僕ら」はまずい。どれぐらまずいかと言うと、「僕らはまずい」という歌を作っても良い程である。



 

 とはいえ「僕」といっておきながら「オレたち」「私たち」と連結するのは斬新過ぎる(「僕は思う。オレたちは獲物だ」「僕は思った。私たちはある意味で幸福なのです」。斬新過ぎてちょっとカッコ良いが)。



 

 という訳で、これは完全にトライなのだが、今回、一人称を「わたし」としてみる。僕が野良犬を見つめているのと、わたしが野良犬を見つめているのは、全く別の事である。



 

 くだくだと書いていたら止まらなくなってきたので、更に前置きが続く。



 

 僕は「キャラ設定」という、恐らく源流は小説や演劇の用語で、アニメーションやマンガで完成したであろう言葉と概念が、業界用語/特殊語としてではなく、一般化されているのが余り好きではない(この言葉は、実際に録音してカウントしてみると解るが、思っているよりも遥かに多く、一般の会話に出てくる。居酒屋で録音しっぱなしにしたら、1時間で1000個は採れるだろう)。



 

 おそらくそれは、それはこうして、「キャラ」が、言語情報に圧倒的に偏っているからだ。



 

 コスチュームや(仕草を含む)外見は、実は「キャラ設定」にとって、言葉の従属物に過ぎない。過去、一緒に仕事をした事があるのに(モトローラが出して、大失敗に終わった「ブログが書けるーー何か、爪楊枝みたいなスティックを使ってーー携帯」の宣伝イベントで対談をした)ディスるように見えたら(ディスではないのだが、以下、誤解されやすいと思うので念のため)申し訳ないのだが、昔日、タレントの真鍋かをり氏は、一人称を「オイラ」とする事だけで、「キャラ設定」を更新し、大成功を納めた。



 

 しかしその後(いわゆる「芸能人として、行き詰まって」)キャラ設定を更新しないといけなくなった時、彼女は再びブログの一人称を変化させる事(「わらわ」にするとか)を良しとせず、キャラ設定のリセットをある日から「酒豪」にした。



 

 しかしこの「キャラ設定」は、余程の真鍋ウォッチャーでない限り知らない。という程度には、有効性を発揮していない。



 

 僕とて偶然見たのだ。海外に旅する番組で、彼女はスイスの鉱山鉄道に乗り込む際、ワインを3本買った。「うっわ、真鍋かをりって今、酒豪キャラなのね。ワイン3本無理でしょ。だってこの電車、終点まで2時間ぐらいよ」と思って見ていたら、結局彼女が飲んだのは、ハードとほほ。1本半なのだった。



 

 (因に、今ではマラソンによるストイシズムをキャラ設定に組み込んだ安田美沙子氏も、一時期「酒豪」をキャラ設定にし、運行できずに破棄した。「酒豪」はキャラ設定に向かない。酒豪の言葉遣い、というのが「うい〜ヒック」以外無いからである。じゃあマラソンランナーにあるかと言えば、無い


全員、ドーパミンの出し方が同じなので、ハイで気が狂った感じがある。という程度であるフィジカル/視覚的なメッセージだけである。なので、採用はしているが、弱いのである)。



 

 僕は、例えばこうした(悲しさが止まらなくなるような)理由によっても「キャラ設定」という言葉が好きではない。何故それが、一般的な必要性でもあるかのように捉えられるのだろうか?アニメーションや漫画の世界のテクニカルタームに過ぎないのではないだろうか(音楽の世界に於ける「キー設定(後に転調)」に似て<予め設定しないと、そもそも動き出せない>ものとしての)。



 

 真鍋氏は絵に描いた餅ではない。僕は彼女とかなり近距離で、少々の時間を共にしたが、物凄いリアルを感じたものである(ああ、思ったより背が低いのだな。とか、従順な感じなのだな。とか)。それが真鍋氏のリアルな魅力に直結すれば良いのに。と、思うのである。とはいえもし頑張って2時間で3本飲んだとしても、特に嬉しくない。と思うのである。キャラ設定の為に飲まれるワインも、飲むタレントも、共に気の毒である。



 

 それに引き換え、たった今、蜷川実花氏が綾瀬はるか氏の写真を撮っている態のTVCMが眼前で流れている。これは凄い。いたずらに前書きを延ばして遊んでいたら、マジで偶然目に入った。「呼んだ」という奴である。


 


 ここでの蜷川氏は、普段の蜷川氏と、余りにも顔が違う(整形しているとか、修正しているとか言っているのではない。実際に整形したり、修正したりしているのかもしれないけれども、そこはこのCMを論じるに際し、問題ではない)。これはもう完全な「別キャラ」である。



 

 そして、このCMで蜷川氏はほとんど発言していないし、音量をゼロにしても「別キャラであること」は微塵も揺るぎない。つまり、ここでの蜷川氏の別人ぶりは顔面(表情含む)のみに依拠しており、そしてそれは前述の通り、整形とか修正といった話ではなく、また、単にメイクが濃くなったとか、メイクの仕方が変わったといった、「(コスプレの一部としての)化粧」のレベルを遥かに超えているのである。



 

 ここでの蜷川氏の類例が平均的にまかり通るのであれば「キャラ設定」という言葉とニュアンスに対する僕の抵抗感は無くなるだろう。



 

 つまり「キャラ設定」という語の一般化への抵抗感は、漫画やアニメが好きだとか嫌いだとか言う以前に、アニメの概念が人間概念に援用される事に抵抗があるからであり、その理由は、アニヲタがキモいとかいった話ではない(論理的に言って、狂信者は対象が何であろうと一律キモい。チャーリーパーカーだって狂信者はキモい。問題は、キモさ=狂信に対する過敏さが、昨今どんどん高まっている事である。おおらかさゼロの、相互差別社会に向けて、我々は追いつめられている)。



 

 アニメーションに於ける「キャラ設定」が、あたかも総合的であるかのようなそぶりで、実は音声情報に95%ぐらい偏っているという詐称もしくは誤謬(発声と言葉遣いでキャラは設定される=アニメに絵は要らない。のに、そうは言わない/思っていない)と、詐欺もしくは誤謬であるからこそ、ジャンルを超え、人間理解一般へと拡大されてゆく、といった強いパワーに抵抗を感じているのである。



 

 こんな詐称もしくは誤謬さえなければ、真鍋氏は「オイラ」を「わたし」にするだけで良かったのである。アニメに習って、何か行動等も変えないとキャラのリセットが出来ない。という強迫をして、真鍋氏はワインを3本も買い込まずにはいられなかったのである。様々な仕事をしながら、名称を「菊地成孔」に固定してきた事で、自分的には良しとしてきたが、一人称の問題は盲点だった。と今わたしは思っている。



 


 


 


 

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