ところで、鬼束ちひろさんってどのへんの出身なんだろうか(関東圏でないことだけは勘でわかる)と思って昨晩検索したら、宮崎県出身とあって、「ああ」と深い納得がありました。鹿児島出身の私としては、同じ九州南部出身の宮崎人に対して「鶏の肉を生で喰っても身体を壊さない」という共通点によって基本的には親近感を抱いているのですが、しかし「高千穂」とか「天岩戸神社」とかが実際に存在する自治体というのは、イングランドに例えるならエクスカリバーが刺さっていた岩が観光名所になっているみたいな土地ですので、宗教ジプシーとまでは言わずとも、宮崎県出身の人は「それはそれで切実なのだろうけど、傍目からはものすごく戯画的に映るスピリチュアリティとの折衝」を経験するタイプか/その真逆として穏やかなユーモアを持ちながら驚くほど有能な実務家として生きるタイプ の2パターンに分かれます(←大雑把すぎますが有効な見立てだと思っています)。とくに上京して自己実現を果たしたい人はこのいずれかにくっきり寄せられてしまうことが多く、自身の性《さが》とその理想像が相反している人はかなり苦悶するのではないでしょうか。一時期の鬼束さんもその類だったのではないかと思っています。ドラマ『TRICK』は今観ても面白いので七難隠せてますが、宮崎出身の歌手が「I am GOD'S CHILD」と平気で唄うことの意味は凄すぎます(笑)
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>>3
ご返信をいただきありがとうございます。
危険な道を行っているミュージシャン(とそのファン)に対する菊地さんの提言が、20年前と全く変わっていないことに感動します(笑) サカナのぐっさんとそのファンたちも、鬼束さんと同じように大事なく軟着陸してくれたらいいのですが。
ところで、鬼束ちひろさんってどのへんの出身なんだろうか(関東圏でないことだけは勘でわかる)と思って昨晩検索したら、宮崎県出身とあって、「ああ」と深い納得がありました。鹿児島出身の私としては、同じ九州南部出身の宮崎人に対して「鶏の肉を生で喰っても身体を壊さない」という共通点によって基本的には親近感を抱いているのですが、しかし「高千穂」とか「天岩戸神社」とかが実際に存在する自治体というのは、イングランドに例えるならエクスカリバーが刺さっていた岩が観光名所になっているみたいな土地ですので、宗教ジプシーとまでは言わずとも、宮崎県出身の人は「それはそれで切実なのだろうけど、傍目からはものすごく戯画的に映るスピリチュアリティとの折衝」を経験するタイプか/その真逆として穏やかなユーモアを持ちながら驚くほど有能な実務家として生きるタイプ の2パターンに分かれます(←大雑把すぎますが有効な見立てだと思っています)。とくに上京して自己実現を果たしたい人はこのいずれかにくっきり寄せられてしまうことが多く、自身の性《さが》とその理想像が相反している人はかなり苦悶するのではないでしょうか。一時期の鬼束さんもその類だったのではないかと思っています。ドラマ『TRICK』は今観ても面白いので七難隠せてますが、宮崎出身の歌手が「I am GOD'S CHILD」と平気で唄うことの意味は凄すぎます(笑)
しかし鬼束さんが4年前に出した『書きかけの手紙』という曲の歌詞を読んでみたら、21世紀のネット上テキストでもてはやされる「言語化」、より正確には「言語化できないワタシのキモチ」がテーマに据えられたもので(フロイト=ラカン理論からすれば、「言語化」されたものは単純に剥がれ落ちた皮膚や抜け落ちた髪の毛や排泄物のようなもので、「貧困化」の過程を経たからこそ「リアル」さを担保してくれるだけの存在=対象aにすぎないはずですが、数年前から「推しの魅力を的確に言語化できるのは素晴らしいことです(とはいっても、敢えて言語化しないのもまた素晴らしいんですけどね)」みたいな言説が蔓延するどころかそういう内容の本が売れてさえいるという話を耳にして、いよいよヤバいなこの国と思いましたが笑)(←書きながら気づきましたが、菊地さんの仰る “排泄する時とか凄いですよ。エモいよ” とは、この「対象a」のリアルさと関係がありますかね? ないか笑)、ちゃんと時代のエモさにノれてるなあと感心しました。 「したいけどできない(その姿を作品内で演舞的に晒す)」という方法論は、いまいちイメージが定まらない受苦者の姿を場当たり的に見せるネット出身ヴァーチャルシンガーたちのやり口よりも、一種地に足のついた表現のように思えます。