ユン・ソンニョルは「北朝鮮の共産主義勢力による脅威からリベラルな韓国を守り、人々の自由と幸福を略奪する反国家要素を排除するために、私はここに非常戒厳令を宣言します」とテレビで演説したらしいですが、この報に接して私は「おおすげえ、特定の “主義者”を一方的に敵認定して排除するやり方。在りし日のツイッターみたいだ。いや違うか、ツイッター常用者たちのやり方が20世紀的なパージの模倣だったのか?」と思いました。「リベラル」の名のもとにファンタジー化された敵と戦いながら結局何ひとつ倒せない(どころか国民の側から倒される)、という「同盟国」での一幕を見せられたUSA市民の心中に、一体何が去来したのか? ということがまず気になります。 学級委員長または喧嘩番長が、主観的な「非常事態」を解決するためにいきなりフリークアウトするも、周囲の至極冷静な視線に晒され、結局のところ事態は順当に鎮静化する。という場面の類型が私は好きで、『インファナル・アフェア』第三作目の終盤でもそんなシーンがありましたが、今回の大韓民国における「戒厳令」騒動からその類型を思い出しました。逆をとれば、かの国にはまともなツッコミ役としての民が一定以上の層を形成している証拠で、いま「政治家は全部ダメ。政治家であるからには誰も要らない」という真実にちゃんと気付けている国家の筆頭は大韓民国なのではないか、とすら私は思っています。一方、数年前からやたらと出始めた韓国産の御自愛系エッセイ(『死にたいけどトッポッキは食べたい』みたいな)の著者とその読者や、やたらと「HELL朝鮮」を唱えたがる人々からは日本国のツイッタライズドリベラリストと同じ臭いがして、むしろこちらのほうが大韓民国においては少数派なのではないかとすら思わされます。もちろんこれには、私による勝手な隣国への理想化も多分に働いているとは思いますが。 数手遅れの感想ですが、菊地さんの『クチから出まかせ』を先週から読ませていただいており、それをきっかけとして、ここ数日『ありがとう、トニ・エルドマン』などを改めて観返しております。御著者内で一番面白かったのは、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演『モンスター・ハンター』がケイト・ブランシェット主演『TAR』のエンディングに地下茎的に繋がっていたというご指摘でした(笑) おかげでここ数日ずっと久しぶりに映画づいており、御著者に掲載されていない映画『スペンサー』(『ジャッキー』監督作)に物凄い感銘を受けたり(『スペンサー』を満足に評することができるのは、音楽と服飾への適性も含め、菊地さん以外には存在しないと思われます)、ラジオデイズで紹介されていたトランプ伝記劇映画についても既に色々書きたくなっているのですが、昨晩、菊地さんも高評価のコメント(と、公開時パンフレットの解説文も?)寄せていらした『探偵マーロウ』を観ました。 画面全体を覆うアイリッシュグリーンの美しさと、その均整が唐突な赤と青で崩される中盤以降のコントラストが実に見事で、2時間以内の映画とは思えないほどの充実感がありました。しかしやはり一番魅力的だったのは音楽で、20世紀的なハードボイルド類型である「擬(偽)ジャズ」ではなく、ラテン由来でなおかつ通俗性のある音楽が映画冒頭からいきなり流れたので驚かされました。既存曲の使い方も、「ビリー・ホリデイの『I'll Be Seeing You』って、109分ある映画の60分めみたいな中途半端なタイミングで流していい曲なんだっけ?(笑)」と思わされ、その「ジャズ名曲」の異化された使い方さえも、劇伴音楽の異質性をより一層引き立てているように思われました。何よりこの映画が最終的にたどり着く「アイリッシュ探偵とメキシカンタフガイとのバディ関係」成立までの流れが、冒頭から流れる音楽の方向性によって自然に正当化されていたように思います。アイルランド×メキシコという同盟関係は、いわゆる西欧列強によって植民地化されたカトリックの当事者意識が燃料になっているのかな? など鹿爪らしいことは抜きにしても、あの映画で最終的に生まれる男ふたりの友情関係(←ニール・ジョーダンはこのパターンを延々と反復しているような監督ですね、トランスセクシュアル者も含めて)はとても美しく暖かなものでした。反射的に泣かされるようなものではないですが、2時間未満でここまで充実した映画があるのはとても幸せなことですね。もしこの映画が不評を被っていたのだとしたら、それは現在の映画界における別の病の所在を逆照射的に示しているに違いないと思います(笑) 『探偵マーロウ』を観たあと、ふいに『黒い罠』サウンドトラックにおけるラテン音楽使いに関して菊地さんが言及していらしたのを思い出し、そちらを聴き直しています。朝鮮半島の出来事をそのままUSAにアナロジーするわけではないですが、硬直化した国家が新しく友愛的なバイブスを獲得するには、「国境の南」から恐怖混じりの魅惑を注入されるしかないと思います。『探偵マーロウ』は、USAが拒絶したがっているラテンアメリカとの融和を、アイルランドが仲介人として立つことで済し崩し的に成立させてしまおうという、実は周到に策士的な作品だったのかもしれません(笑) 私はチャンドラーの原作については何も知りませんが、現在コロンボ研究期にあられる菊地さんが『探偵マーロウ』について改めて思うことがあれば、ぜひお聞かせください。
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ユン・ソンニョルは「北朝鮮の共産主義勢力による脅威からリベラルな韓国を守り、人々の自由と幸福を略奪する反国家要素を排除するために、私はここに非常戒厳令を宣言します」とテレビで演説したらしいですが、この報に接して私は「おおすげえ、特定の “主義者”を一方的に敵認定して排除するやり方。在りし日のツイッターみたいだ。いや違うか、ツイッター常用者たちのやり方が20世紀的なパージの模倣だったのか?」と思いました。「リベラル」の名のもとにファンタジー化された敵と戦いながら結局何ひとつ倒せない(どころか国民の側から倒される)、という「同盟国」での一幕を見せられたUSA市民の心中に、一体何が去来したのか? ということがまず気になります。
学級委員長または喧嘩番長が、主観的な「非常事態」を解決するためにいきなりフリークアウトするも、周囲の至極冷静な視線に晒され、結局のところ事態は順当に鎮静化する。という場面の類型が私は好きで、『インファナル・アフェア』第三作目の終盤でもそんなシーンがありましたが、今回の大韓民国における「戒厳令」騒動からその類型を思い出しました。逆をとれば、かの国にはまともなツッコミ役としての民が一定以上の層を形成している証拠で、いま「政治家は全部ダメ。政治家であるからには誰も要らない」という真実にちゃんと気付けている国家の筆頭は大韓民国なのではないか、とすら私は思っています。一方、数年前からやたらと出始めた韓国産の御自愛系エッセイ(『死にたいけどトッポッキは食べたい』みたいな)の著者とその読者や、やたらと「HELL朝鮮」を唱えたがる人々からは日本国のツイッタライズドリベラリストと同じ臭いがして、むしろこちらのほうが大韓民国においては少数派なのではないかとすら思わされます。もちろんこれには、私による勝手な隣国への理想化も多分に働いているとは思いますが。
数手遅れの感想ですが、菊地さんの『クチから出まかせ』を先週から読ませていただいており、それをきっかけとして、ここ数日『ありがとう、トニ・エルドマン』などを改めて観返しております。御著者内で一番面白かったのは、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演『モンスター・ハンター』がケイト・ブランシェット主演『TAR』のエンディングに地下茎的に繋がっていたというご指摘でした(笑)
おかげでここ数日ずっと久しぶりに映画づいており、御著者に掲載されていない映画『スペンサー』(『ジャッキー』監督作)に物凄い感銘を受けたり(『スペンサー』を満足に評することができるのは、音楽と服飾への適性も含め、菊地さん以外には存在しないと思われます)、ラジオデイズで紹介されていたトランプ伝記劇映画についても既に色々書きたくなっているのですが、昨晩、菊地さんも高評価のコメント(と、公開時パンフレットの解説文も?)寄せていらした『探偵マーロウ』を観ました。
画面全体を覆うアイリッシュグリーンの美しさと、その均整が唐突な赤と青で崩される中盤以降のコントラストが実に見事で、2時間以内の映画とは思えないほどの充実感がありました。しかしやはり一番魅力的だったのは音楽で、20世紀的なハードボイルド類型である「擬(偽)ジャズ」ではなく、ラテン由来でなおかつ通俗性のある音楽が映画冒頭からいきなり流れたので驚かされました。既存曲の使い方も、「ビリー・ホリデイの『I'll Be Seeing You』って、109分ある映画の60分めみたいな中途半端なタイミングで流していい曲なんだっけ?(笑)」と思わされ、その「ジャズ名曲」の異化された使い方さえも、劇伴音楽の異質性をより一層引き立てているように思われました。何よりこの映画が最終的にたどり着く「アイリッシュ探偵とメキシカンタフガイとのバディ関係」成立までの流れが、冒頭から流れる音楽の方向性によって自然に正当化されていたように思います。アイルランド×メキシコという同盟関係は、いわゆる西欧列強によって植民地化されたカトリックの当事者意識が燃料になっているのかな? など鹿爪らしいことは抜きにしても、あの映画で最終的に生まれる男ふたりの友情関係(←ニール・ジョーダンはこのパターンを延々と反復しているような監督ですね、トランスセクシュアル者も含めて)はとても美しく暖かなものでした。反射的に泣かされるようなものではないですが、2時間未満でここまで充実した映画があるのはとても幸せなことですね。もしこの映画が不評を被っていたのだとしたら、それは現在の映画界における別の病の所在を逆照射的に示しているに違いないと思います(笑)
『探偵マーロウ』を観たあと、ふいに『黒い罠』サウンドトラックにおけるラテン音楽使いに関して菊地さんが言及していらしたのを思い出し、そちらを聴き直しています。朝鮮半島の出来事をそのままUSAにアナロジーするわけではないですが、硬直化した国家が新しく友愛的なバイブスを獲得するには、「国境の南」から恐怖混じりの魅惑を注入されるしかないと思います。『探偵マーロウ』は、USAが拒絶したがっているラテンアメリカとの融和を、アイルランドが仲介人として立つことで済し崩し的に成立させてしまおうという、実は周到に策士的な作品だったのかもしれません(笑) 私はチャンドラーの原作については何も知りませんが、現在コロンボ研究期にあられる菊地さんが『探偵マーロウ』について改めて思うことがあれば、ぜひお聞かせください。