>>21 <改めてですが、仰られているフォークは自殺、ラテンは他殺の音楽構造とは、どういったものなのでしぃうか?是非、解説頂けると嬉しいです。> まず、ここでの「フォーク」は、「日本のフォーク」という意味で、ここでの「ラテン」は、おおよそ、キューバへの観光ブーム(禁酒法由来)の最中に目がヒットした「エルマニセロ(邦題「南京豆売り)」以降の、全ての「ラテンミュージック」のことです。 よく、アメリカ文学のテーマは流木と冒険、フランス文学のテーマは金と愛、日本文学のテーマは病褥と自殺、などと言われますが、日本語で歌われるあらゆる「日本のフォークソング」は、音楽を、音楽と文学のミクスチャーだとした場合、文学寄りの、つまり「音楽が少ない音楽」だと僕は考えており、こうしたインターテクスチャリティで捉えた結果も、何も考えずに無心に聴いた直感も等しく「日本のフォークは、自殺を美とし、自殺を欲望している」と感じています。カレッジフォーク以降の、ポップカルチャー内での「フォーク」を「フォルクローレ」と拡大解釈しても、民謡にも端唄小唄にも常磐津にも都都逸にも、軍歌でさえも、この「自殺感」を、僕は全く感じません。(近代)文学と無縁だからだと思っています。 一方で、「ラテンミュージック」は、ご存知だと思いますが、最近だとゴンフィンガー(ゴンはガンの事で、ゴンフィンガーはガンフィンガーすなわち、指をピストルの形にして、褒め称える行為で、中指を突き立てるファックと反対に発展した、同一原型の行為です)に代表される「ブッ放す」感、というか、有名な「リオのカーニヴァルの時、ギャングが発砲しても(サンバの音にかき消されて)発砲音が聞こえないので、カーニヴァル中に銃殺が行われることがある」という伝説を始め、過剰なまでのセクシーさ(もう、セクシーに見えないほど充溢する)も、死の秘匿だと感じていて、この時の「死」は、他殺だと感じています。 「ラテンとはエロくて陽気で、ややコミカル」というイメージの偏向は、病弱と自殺を文学のテーマとする日本という国による輸入フィルタリングの結果だと思っています。 <加えてですが、ジャンルとしてのクンビアをどのようにご覧になっているかも、何かご意見あれば聞いてみたいです。> クンビアはご存知の通り、コロンビア産のフォルクローレですが、ブエノスアイレス発のデジタルクンビアまで含め、「ラテン音楽がサルサに飽きた結果」ということが出来ると思います。後段に出てくる、音構造に関してですが、クンビアとサルサの決定的な違いは、ベースが拍頭に来ることで、クラーベを必要としないことです(=ハウスミックスが出来ない、もしくはしても意義が消失する)。 都市音楽におけるダンスミュージックの循環や反復(←これは小節やリズムのことではなく、音構造=ジャンル全体のことを指します)の相は「4つ打ち」を巡る相で、サルサが革命的だったのは、4拍子の音楽の中で、ベースも、打楽器の最低音も拍頭にせず拍裏にした事で、拍頭を出力せず、つまり実態をなくして、ダンサーのリズム感の内部に置いたことです。先ほどの相の話で言えば、ハウスに接近しています。 クンビアに限らず、ラテンミュージックの音構造は混血的で、「血統的に独立したアフリカ音楽」に対し、「血統的に独立しない」ので、クンビアにはマリアッチの要素やサルサ等々の要素も多分に含まれますが、その特異点の最大なものは、サルサが最遠まで遠ざけた「4つ打ち」に戻っている、という事と言え、こうした下部構造が音楽のジャンルを決定する最大のことで、鳴らされ、踊る目的に特異点は感じません。 <単純に、コロンビア-メキシコラインの横断が、最近特に顕著になってきており、メキシコのコロンビア化が止まらないからです。それは、文学から始まり、音楽に波及し、殺人も移行しております。コロンビアも一定の水準を保ったままですが、メキシコは顕著になっております> コロンビアはコケインの産地にして流通、中継点として有名すぎ、文化の認識が世界的に遅れていると思いますが、音楽で言えば、クンビアよりも僕は、コロンビアのアフリカ系(その意味ではクンビアもそうですが)ヒップホップクルーである「コンビレサ・ミ」が、今の所世界で一番ヤバいヒップホップだと思っています。彼らは明らかに現代のヒップホップクルーなのですが、電気楽器も(ドープなアルバムでは)コード楽器も使わず、打楽器のアンサンブルだけでラップします。 <以前、ラジオでホンジュラスに言及されておりましたが、現在殺人率トップ10の中にメキシコから7都市ランクインしております。ちなみにサンペドロスーラも引き続きランクインしておりますが、しばらく前から一位の座からは転落しております。元凶は、CJNGと言われておりますが、かつてのメデジンとはもう位相が違う様子になっております。ただ時代が進んだということですが、根本は同じです。> そうした相は、株価のように変動しますが、株式市場のように、革命的なことは滅多に起こりませんよね。「ハリスコ新世代カルテル」も、今や結成13〜4年目だと思いますので、「新世代」とは言えず、循環系、混血系の変化をしているのかも知れないですね。 <ぺぺはラテンの最南端に出自の一端に持ち、DCPRGがアングロを出自の一端に持っていると理解しております> はい。 <アメリカ大陸(カリブ含む)の射程の中に空白地帯が生じていると思い(特に、ラサコスミカの4人種中の赤い肌の人々)に対して、今後アプローチがあるのかということに興味があります。> 端的に申し上げると、無いです。あまり音楽の計画の話は、準備状態から話すべきでは無いのですが、今僕が(リーダーとして)作ろうとしているバンドは無茶苦茶シンプルに言うと「東京の音楽」です。 <先日拝見した、ドスモノスとの対談での、ラサコスミカに対するパートを読みましたが、非常に面白かったです。80年代にあの奇書が翻訳されていたのですね。ドスモノスはあまりピンと来ないのですが、リミックス秀逸でした> 「現代思想 特集<ラテン>」は、「現代思想 特集<ラテン>」と並ぶ名特集で、僕も、いつ読み潰しても良いように、3冊持っています。翻訳で読んでも迫力と狂気がものすごいですね。 ドスモノス は、こんなに毎日パーカー着てるのに笑、申し訳ないんですが、「お好みかどうか?」と尋ねられれば、個人的には、先進性の素晴らしさもカリスマも感じますが、あんまり「お好み」では無いです。ドスシキ(リミックス盤)も、評価は高いですが、N/Kとしても、菊地成孔としても「荘子くんのエネルギーと才能を信じよう」と感じてしまっているのは確かです。要するに、ヤラれてないので、いつからヤラれたいな。と期待しています。 先日、オムス、QN、ジュマと飯食いに行ったんですが、「ドスモノス はボツが一番ヒップホップ」という保守性で意見が一致しました笑。ジャズドミュニスターズが「エル・ジャス・ドムニスタス」に変容する作品は準備中ですが、あのチームは根幹がフロイドとベルグソンなので、そういう流れで「ラテン」になるとして、あまり伝わらないな笑、と思っています笑。 <以前、ラジオがドミュにスターズに乗っ取られていましたが、初めてJヒップホップで痺れました。盤よりも、ラジオジャックの方がグッと来ました。> はい、僕もそう思い笑、彼らにラジオジャックさせる事にしました。ああいう事こそが真の「ニューリミックス」だと思う訳で、「ドスシキ」のニューリミックスは、非凡で先進性はあるけれども、前述、ヤラれてまではいませんし、逆に嫌悪感も全くありません。 ラジオジャックは、最後の、環七(です)の静寂と車の音まで、自分でやっておきながらアレですが、ヤラれました笑。ただ、ドスシキはかなり売れて評価も高いですが、「ジャズドミュニスターズの逆襲」は、3000回弱再生されただけで、谷王すら聞いていませんので笑、ヒップホップでの加齢の表現、に関しては、常に考えています。 <さらに映画評も拝読しました。プエルトリコは、ラテンのなかでは非常に特権的な地位にいる(良くも悪くも)国で、NYに行くたびにパピ、パピ、声をかけてくれる素敵な方々がコミュニティに多くいます。(私がNYに滞在する時は、金銭的にも心情的にもラテンコミュニティになってしまいます。インザハイツはまだ未見ですが、是非見てみたいと思いました。また監督が確かアジア系だったのが印象的です)> 何番目かに書きましたが、監督のジョン・M・チュウは中国系エリートで、なんとカルフォルニアの最高級住宅街パロアルトで生まれています。イン・ザ・ハイツは是非ご覧ください。 <移民の世代間の位相の違い、的確に指摘されていて、日本でもこの感覚が伝わるといいなと思いました。素晴らしい仕事でした。ブラセロがあった時代と今では移民におけるプロセスは全く違います。これもまた時代が進んだのですが、根本的には全く変わりません。> ありがとうございます。ただ、これは、映画に描かれてることで、でも日本人にはほとんど理解されていないであろう点なので、日本語で指摘を加えましたが、伝わる伝わらないで言ったら、伝わらないと思います笑、そもそもあんな長文を読むのは、一部の好事家になっていますし笑 <質問の意図としては、上記二つのテキストから見える菊地さんのラテンへの解釈に、さらに以前仰られていたその音楽の構造も理解してみたいと考えております。> 僕の発言は、巷間、「(日本の)フォークは根幹に自殺を志向している」VS「ラテン音楽は<生きること>を志向している」とまとめられがち、かつ、それはあんまり正鵠を射てないと思ったので、「生×死」ではなく「自殺×他殺」とした訳ですが、「他殺」というのは端的に暴力性です。日本の暴力は自傷にしか見えません。自傷にも快楽があるのでそこが魅力な訳ですが、このことは「非混血性=純潔性(実際に日本民族を始め、すべての純潔性は幻想であり、現実である混血性と対峙しますが)」の息苦しさに原理が置かれていると思います。 混血性には内部で循環しながら拡大してゆく「反自滅性=増殖性」があり、ラテン世界における暴力とは、自らの止められない拡大に対する手段の一つであると思っています。 <最近は、アルゼンチンのメキシコ移住も止まりません。こういうのは、持ちつ持たれつですね。> 今年はピアソラの生誕100年でしたので、特集番組がいくつか制作されました。僕にもちょっとしたオファーがあったのですが、やはり質量的に、すべて小松亮太さんが独占するのが順当だと思い、辞退しました。小松さんは、「アルゼンチンタンゴに関する伝説は一つ残らず全部ウソだ」という、かなり正しいビジョンをお持ちで、テレビを見ていて圧倒されましたが、「イン・ザ・ハイツ」組さえも、周到に避けたメキシコ文化に関しては、コロンビアと並び、21世紀の「外国へのイメージ」を更新すべき土地だと思います。 <ガボやルルフォ、フエンテス、プイグなど名だたる作家がシナリオに進出しましたが、まだ両輪の花を咲かせたとまでは言い切れません。そんな中、ギジェルモ・アリアガが昨今文学を更新し続けているのは、非常に特異な例として見ています。血が濃くて大変です> 僕はオールタイムベストに「蜘蛛女のキス」があるのですが、マニュエルプイグは脚本を書いていないし、汎用版として広がっている「舞台版」があまりにひどいし(蜘蛛女が主人公!)、確かにまだ難しいところですね。ギジェルモアリアガの、少なくとも「映画人」としての業績は「夜のバッファロー」以外は、あまり認めておらず、ただ、ドスモノス ではありませんが、「更新」している感は半端ないと思いますし、この「好き嫌いはともかく、更新は成されている」という感覚は、きっと僕も多くの人々に与えていると思っており、なんらかの共振性は感じます。 <シナリオも構造分析が可能でし易いので、他の分析とリンクさせて考察してみたいです。ガボが行なっている小説分析と、シナリオ分析の位相が違うのも、非常に興味深いです。> 有名なバルトのコノテーション(共時性言語学)を基盤とする物語分析(その実践の一つに「M/D」がタイトルをパクった「S/Z」がありますが)や、マルケスのそれは、わかりやすさとわかりにくさの違いが大きいですが、シナリオ、特にエンターテインメントのシナリオ分析は、一回、定番みたいな本が出ていて、読んだのですが、僕には「エンターテインメント映画の脚本の分析」とは思えず、むしろ「エンターテインメントとは何か?」という本に思えました。エンターテインメント映画の脚本分析は、プラモデルのようにシンプルであり、レゴブロックのように複雑で、実はハンバーガーの分析のようなものだと思っています。 前述、「新しいバンド」の話に終始してしまいましたが、来年の年頭に、ぺぺトルメントアスカラールが東京で公演します(今週中に情報公開があります)。ここでは、前述退けた「赤い肌」の人々に対するアプローチを考えていますし、再び前述、<エル・ジャス・ドムニスタスの誕生>、も列に並んでいます。
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>>21
<改めてですが、仰られているフォークは自殺、ラテンは他殺の音楽構造とは、どういったものなのでしぃうか?是非、解説頂けると嬉しいです。>
まず、ここでの「フォーク」は、「日本のフォーク」という意味で、ここでの「ラテン」は、おおよそ、キューバへの観光ブーム(禁酒法由来)の最中に目がヒットした「エルマニセロ(邦題「南京豆売り)」以降の、全ての「ラテンミュージック」のことです。
よく、アメリカ文学のテーマは流木と冒険、フランス文学のテーマは金と愛、日本文学のテーマは病褥と自殺、などと言われますが、日本語で歌われるあらゆる「日本のフォークソング」は、音楽を、音楽と文学のミクスチャーだとした場合、文学寄りの、つまり「音楽が少ない音楽」だと僕は考えており、こうしたインターテクスチャリティで捉えた結果も、何も考えずに無心に聴いた直感も等しく「日本のフォークは、自殺を美とし、自殺を欲望している」と感じています。カレッジフォーク以降の、ポップカルチャー内での「フォーク」を「フォルクローレ」と拡大解釈しても、民謡にも端唄小唄にも常磐津にも都都逸にも、軍歌でさえも、この「自殺感」を、僕は全く感じません。(近代)文学と無縁だからだと思っています。
一方で、「ラテンミュージック」は、ご存知だと思いますが、最近だとゴンフィンガー(ゴンはガンの事で、ゴンフィンガーはガンフィンガーすなわち、指をピストルの形にして、褒め称える行為で、中指を突き立てるファックと反対に発展した、同一原型の行為です)に代表される「ブッ放す」感、というか、有名な「リオのカーニヴァルの時、ギャングが発砲しても(サンバの音にかき消されて)発砲音が聞こえないので、カーニヴァル中に銃殺が行われることがある」という伝説を始め、過剰なまでのセクシーさ(もう、セクシーに見えないほど充溢する)も、死の秘匿だと感じていて、この時の「死」は、他殺だと感じています。
「ラテンとはエロくて陽気で、ややコミカル」というイメージの偏向は、病弱と自殺を文学のテーマとする日本という国による輸入フィルタリングの結果だと思っています。
<加えてですが、ジャンルとしてのクンビアをどのようにご覧になっているかも、何かご意見あれば聞いてみたいです。>
クンビアはご存知の通り、コロンビア産のフォルクローレですが、ブエノスアイレス発のデジタルクンビアまで含め、「ラテン音楽がサルサに飽きた結果」ということが出来ると思います。後段に出てくる、音構造に関してですが、クンビアとサルサの決定的な違いは、ベースが拍頭に来ることで、クラーベを必要としないことです(=ハウスミックスが出来ない、もしくはしても意義が消失する)。
都市音楽におけるダンスミュージックの循環や反復(←これは小節やリズムのことではなく、音構造=ジャンル全体のことを指します)の相は「4つ打ち」を巡る相で、サルサが革命的だったのは、4拍子の音楽の中で、ベースも、打楽器の最低音も拍頭にせず拍裏にした事で、拍頭を出力せず、つまり実態をなくして、ダンサーのリズム感の内部に置いたことです。先ほどの相の話で言えば、ハウスに接近しています。
クンビアに限らず、ラテンミュージックの音構造は混血的で、「血統的に独立したアフリカ音楽」に対し、「血統的に独立しない」ので、クンビアにはマリアッチの要素やサルサ等々の要素も多分に含まれますが、その特異点の最大なものは、サルサが最遠まで遠ざけた「4つ打ち」に戻っている、という事と言え、こうした下部構造が音楽のジャンルを決定する最大のことで、鳴らされ、踊る目的に特異点は感じません。
<単純に、コロンビア-メキシコラインの横断が、最近特に顕著になってきており、メキシコのコロンビア化が止まらないからです。それは、文学から始まり、音楽に波及し、殺人も移行しております。コロンビアも一定の水準を保ったままですが、メキシコは顕著になっております>
コロンビアはコケインの産地にして流通、中継点として有名すぎ、文化の認識が世界的に遅れていると思いますが、音楽で言えば、クンビアよりも僕は、コロンビアのアフリカ系(その意味ではクンビアもそうですが)ヒップホップクルーである「コンビレサ・ミ」が、今の所世界で一番ヤバいヒップホップだと思っています。彼らは明らかに現代のヒップホップクルーなのですが、電気楽器も(ドープなアルバムでは)コード楽器も使わず、打楽器のアンサンブルだけでラップします。
<以前、ラジオでホンジュラスに言及されておりましたが、現在殺人率トップ10の中にメキシコから7都市ランクインしております。ちなみにサンペドロスーラも引き続きランクインしておりますが、しばらく前から一位の座からは転落しております。元凶は、CJNGと言われておりますが、かつてのメデジンとはもう位相が違う様子になっております。ただ時代が進んだということですが、根本は同じです。>
そうした相は、株価のように変動しますが、株式市場のように、革命的なことは滅多に起こりませんよね。「ハリスコ新世代カルテル」も、今や結成13〜4年目だと思いますので、「新世代」とは言えず、循環系、混血系の変化をしているのかも知れないですね。
<ぺぺはラテンの最南端に出自の一端に持ち、DCPRGがアングロを出自の一端に持っていると理解しております>
はい。
<アメリカ大陸(カリブ含む)の射程の中に空白地帯が生じていると思い(特に、ラサコスミカの4人種中の赤い肌の人々)に対して、今後アプローチがあるのかということに興味があります。>
端的に申し上げると、無いです。あまり音楽の計画の話は、準備状態から話すべきでは無いのですが、今僕が(リーダーとして)作ろうとしているバンドは無茶苦茶シンプルに言うと「東京の音楽」です。
<先日拝見した、ドスモノスとの対談での、ラサコスミカに対するパートを読みましたが、非常に面白かったです。80年代にあの奇書が翻訳されていたのですね。ドスモノスはあまりピンと来ないのですが、リミックス秀逸でした>
「現代思想 特集<ラテン>」は、「現代思想 特集<ラテン>」と並ぶ名特集で、僕も、いつ読み潰しても良いように、3冊持っています。翻訳で読んでも迫力と狂気がものすごいですね。
ドスモノス は、こんなに毎日パーカー着てるのに笑、申し訳ないんですが、「お好みかどうか?」と尋ねられれば、個人的には、先進性の素晴らしさもカリスマも感じますが、あんまり「お好み」では無いです。ドスシキ(リミックス盤)も、評価は高いですが、N/Kとしても、菊地成孔としても「荘子くんのエネルギーと才能を信じよう」と感じてしまっているのは確かです。要するに、ヤラれてないので、いつからヤラれたいな。と期待しています。
先日、オムス、QN、ジュマと飯食いに行ったんですが、「ドスモノス はボツが一番ヒップホップ」という保守性で意見が一致しました笑。ジャズドミュニスターズが「エル・ジャス・ドムニスタス」に変容する作品は準備中ですが、あのチームは根幹がフロイドとベルグソンなので、そういう流れで「ラテン」になるとして、あまり伝わらないな笑、と思っています笑。
<以前、ラジオがドミュにスターズに乗っ取られていましたが、初めてJヒップホップで痺れました。盤よりも、ラジオジャックの方がグッと来ました。>
はい、僕もそう思い笑、彼らにラジオジャックさせる事にしました。ああいう事こそが真の「ニューリミックス」だと思う訳で、「ドスシキ」のニューリミックスは、非凡で先進性はあるけれども、前述、ヤラれてまではいませんし、逆に嫌悪感も全くありません。
ラジオジャックは、最後の、環七(です)の静寂と車の音まで、自分でやっておきながらアレですが、ヤラれました笑。ただ、ドスシキはかなり売れて評価も高いですが、「ジャズドミュニスターズの逆襲」は、3000回弱再生されただけで、谷王すら聞いていませんので笑、ヒップホップでの加齢の表現、に関しては、常に考えています。
<さらに映画評も拝読しました。プエルトリコは、ラテンのなかでは非常に特権的な地位にいる(良くも悪くも)国で、NYに行くたびにパピ、パピ、声をかけてくれる素敵な方々がコミュニティに多くいます。(私がNYに滞在する時は、金銭的にも心情的にもラテンコミュニティになってしまいます。インザハイツはまだ未見ですが、是非見てみたいと思いました。また監督が確かアジア系だったのが印象的です)>
何番目かに書きましたが、監督のジョン・M・チュウは中国系エリートで、なんとカルフォルニアの最高級住宅街パロアルトで生まれています。イン・ザ・ハイツは是非ご覧ください。
<移民の世代間の位相の違い、的確に指摘されていて、日本でもこの感覚が伝わるといいなと思いました。素晴らしい仕事でした。ブラセロがあった時代と今では移民におけるプロセスは全く違います。これもまた時代が進んだのですが、根本的には全く変わりません。>
ありがとうございます。ただ、これは、映画に描かれてることで、でも日本人にはほとんど理解されていないであろう点なので、日本語で指摘を加えましたが、伝わる伝わらないで言ったら、伝わらないと思います笑、そもそもあんな長文を読むのは、一部の好事家になっていますし笑
<質問の意図としては、上記二つのテキストから見える菊地さんのラテンへの解釈に、さらに以前仰られていたその音楽の構造も理解してみたいと考えております。>
僕の発言は、巷間、「(日本の)フォークは根幹に自殺を志向している」VS「ラテン音楽は<生きること>を志向している」とまとめられがち、かつ、それはあんまり正鵠を射てないと思ったので、「生×死」ではなく「自殺×他殺」とした訳ですが、「他殺」というのは端的に暴力性です。日本の暴力は自傷にしか見えません。自傷にも快楽があるのでそこが魅力な訳ですが、このことは「非混血性=純潔性(実際に日本民族を始め、すべての純潔性は幻想であり、現実である混血性と対峙しますが)」の息苦しさに原理が置かれていると思います。
混血性には内部で循環しながら拡大してゆく「反自滅性=増殖性」があり、ラテン世界における暴力とは、自らの止められない拡大に対する手段の一つであると思っています。
<最近は、アルゼンチンのメキシコ移住も止まりません。こういうのは、持ちつ持たれつですね。>
今年はピアソラの生誕100年でしたので、特集番組がいくつか制作されました。僕にもちょっとしたオファーがあったのですが、やはり質量的に、すべて小松亮太さんが独占するのが順当だと思い、辞退しました。小松さんは、「アルゼンチンタンゴに関する伝説は一つ残らず全部ウソだ」という、かなり正しいビジョンをお持ちで、テレビを見ていて圧倒されましたが、「イン・ザ・ハイツ」組さえも、周到に避けたメキシコ文化に関しては、コロンビアと並び、21世紀の「外国へのイメージ」を更新すべき土地だと思います。
<ガボやルルフォ、フエンテス、プイグなど名だたる作家がシナリオに進出しましたが、まだ両輪の花を咲かせたとまでは言い切れません。そんな中、ギジェルモ・アリアガが昨今文学を更新し続けているのは、非常に特異な例として見ています。血が濃くて大変です>
僕はオールタイムベストに「蜘蛛女のキス」があるのですが、マニュエルプイグは脚本を書いていないし、汎用版として広がっている「舞台版」があまりにひどいし(蜘蛛女が主人公!)、確かにまだ難しいところですね。ギジェルモアリアガの、少なくとも「映画人」としての業績は「夜のバッファロー」以外は、あまり認めておらず、ただ、ドスモノス ではありませんが、「更新」している感は半端ないと思いますし、この「好き嫌いはともかく、更新は成されている」という感覚は、きっと僕も多くの人々に与えていると思っており、なんらかの共振性は感じます。
<シナリオも構造分析が可能でし易いので、他の分析とリンクさせて考察してみたいです。ガボが行なっている小説分析と、シナリオ分析の位相が違うのも、非常に興味深いです。>
有名なバルトのコノテーション(共時性言語学)を基盤とする物語分析(その実践の一つに「M/D」がタイトルをパクった「S/Z」がありますが)や、マルケスのそれは、わかりやすさとわかりにくさの違いが大きいですが、シナリオ、特にエンターテインメントのシナリオ分析は、一回、定番みたいな本が出ていて、読んだのですが、僕には「エンターテインメント映画の脚本の分析」とは思えず、むしろ「エンターテインメントとは何か?」という本に思えました。エンターテインメント映画の脚本分析は、プラモデルのようにシンプルであり、レゴブロックのように複雑で、実はハンバーガーの分析のようなものだと思っています。
前述、「新しいバンド」の話に終始してしまいましたが、来年の年頭に、ぺぺトルメントアスカラールが東京で公演します(今週中に情報公開があります)。ここでは、前述退けた「赤い肌」の人々に対するアプローチを考えていますし、再び前述、<エル・ジャス・ドムニスタスの誕生>、も列に並んでいます。