菊地成孔(著者) のコメント

userPhoto 菊地成孔
(著者)

>>15

 詩的なまでに美しい、現代日本への考察に感謝します。おっしゃる通りだと思います。サイケクンビアは最高ですよね。「雨期」という言葉が、なぜかベルクソンを思い出させました。どこかの論文にあるのかも知れません。

 そしてこの論考は、バブル経済に突入する直前まで、違った入射角度で(安保だとか、国民総生産だとか)問題視されていたことです。僕が付け加えることがあるとしたら、日本人は死のインストールに関して、関東大震災と太平洋戦争によって一度はキチンとしたにも関わらず、バブル経済によって、ボールを使うあらゆるゲームの、本ちょっとの力の入り加減を間違えたまま来てしまい(僕はあの時、消費のデカダン=死、と、エコロジー=静かで長い生、の分離がクソミソになったと思っており、80年代サブカル批判=吊るし上げ行為、には乗れませんが、誰もがもっと、強くフラットなハートで過去の過ちを受け入れ直すべきだと、思います)オウム事件も、3 /11も、死のインストールを不細工にしてしまったと思いますし、「不安の蔓延」を超え、ある種原理的である「生への嫌悪」「死への希望」が、個人的な行動ではなく、サブカルの巨大なアイコンにまで届きそうな勢いを感じます。

 今日、渋谷を歩いていたら、駅前のタワーに、「エヴァンゲリヲン」に関する、悼辞のようなものが掲げられ(それは本当に、悼辞のように、少しづつ少しづつ明滅して掲げられるのですが)、巨大な葬儀が熱狂的に行われているようで、僕にとってギャルという生物の発生源だったあの小汚く素晴らしい地区が、管理墓地になったようで、少々ため息をつきました。

 今「curejazz」の2度目のリユニオンのリハーサルをしています。あれを作った時、僕は40過ぎで、UAは30代前半でした。今回のブルーノートでは「老いる。とはどういうことなのだろうか」という事が音楽を通じて伝わると思います。彼女は3人の子供を産み、カナダの離島(英語圏側)に住んでおり、僕は子供はなく、変わらず新宿にいます。生まれてからずっとそうしてきましたが、特に震災以降、僕は僕ができる限り、つまり音楽と語りを使って、死と生の問題を現代日本人に向け、ラジオやライブで伝え続けてきたつもりですが、多勢に無勢とも言えるような、しかし石はキチンと置いたと言えるような結果になっていると評価しています。渋谷のあのタワーが、オリパラが持つアイコン性とぶつかり合っている状況が、日本の多様性であり、冷戦であると思います。



 

No.16 37ヶ月前

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