菊地さんは『作家主義 ホン・サンス』収録の「ホン・サンス論」で、「文芸の外にあるもの、わたしたちが本来、見たくないものを撮っている」と語られていますが、私にとっては、ホン・サンスは、人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているものを撮っている、という感じがします。ホン・サンスの映画を見て、全体の印象として心地よいと感じらることはほとんどなく、今回の日記で、私は自覚も無く「愛を求めて見に来てしまう観客」なのかなと思いました。 このことが、とんでもない攻撃性として捉えられる一方で、「手に入れる事ができるかできないかの二択としての愛」に疲れている観客にとっての癒しになっているのかもしれない、と思いました。ホン・サンスの映画では、そんなことまで描いてしまって大丈夫なのかと心配になるくらいのものを観させられて、笑ってしまいそうになります。 エコロジーは、ゴミも見つめないといけない、ということの先に、こうした(私のような人にとっての)重みがあるとするならば、菊地さんが普段からよくエコロジーという言葉を使われている意味も、よく理解できるように思います。レヴィ=ストロース(ブリコラージュ)とフロイトの近接性といいますか。 現実の経済体制である資本主義と社会主義と関連付けて他の映画監督と比較されていますが、これについても非常に納得のいくものでした。ホン・サンスは「最後の後継者」と語られていましたが、私小説を可能にするような作家性も無く、かといって本人についてのイメージが全く無いわけでもない、ということが、「自由な普通の人」が生きている資本主義の経済システムの肯定の上に成り立っているような気がします。資本主義(というほど大袈裟ではないにしろ、アダム・スミス的な、人間が自動的に構築してしまう経済)をエコロジーの一部として受け入れているというか。資本主義を否定することで生まれる党派性は、これまで掃いて捨てるほど存在してきましたが、ホン・サンスにはその匂いが全くしません。この自由さにとても惹かれます。 同一性が綻んでいってしまうということと、恋、というものを表裏一体のものとして表現したというのが菊地さんの「次の朝は他人」論かと思いますが、その同一性の綻びを、観客が自分から修正し、そこにフレッシュさが生まれることをホン・サンスは信じており、そこにホン・サンスだけの品格がある。というのは、菊地さんにしか書けないものだと思います。こんなに素晴らしいホン・サンス論を読んだことがありません。 『逃げた女』では、こういったフレッシュさは私の力ではあまり感じられず、菊地さんがUOMOで書かれていたように、名作の感じがありました。女たちがあれこれ語っているけれども、誰にもこの主人公が考えていることが分からない、という静けさ、他人との関わりの中での孤独感が印象的でした。 ラジオデイズの質問で出そうと思って出せなかったのですが、「次の朝は他人」論で、『次の朝は他人』は、村上春樹の作品よりも村上春樹の先品に近いはずだということが、村上春樹の作品を読んでもいないのに分かる。それは村上春樹の作品がユング的であるから。と書かれていましたが、それは、ホン・サンスの作品もユング的である、ということなのでしょうか?同一性の綻びという点と、その補正を読者・観客に委ねるという意味で、二人の作品に似ているところはあると感じつつも、村上春樹の方が「ユニバーサルに面白い」力が圧倒的に強いように感じていて、違いも大きいように感じます。 ジェリー・マリガンの『ナイトライツ』大好きです。菊地さんの日記を読んで以来、グレンファークラスにハマっています。ウィスキーに合う盤もいつかご推薦していただけたら嬉しいです。
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菊地さんは『作家主義 ホン・サンス』収録の「ホン・サンス論」で、「文芸の外にあるもの、わたしたちが本来、見たくないものを撮っている」と語られていますが、私にとっては、ホン・サンスは、人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているものを撮っている、という感じがします。ホン・サンスの映画を見て、全体の印象として心地よいと感じらることはほとんどなく、今回の日記で、私は自覚も無く「愛を求めて見に来てしまう観客」なのかなと思いました。
このことが、とんでもない攻撃性として捉えられる一方で、「手に入れる事ができるかできないかの二択としての愛」に疲れている観客にとっての癒しになっているのかもしれない、と思いました。ホン・サンスの映画では、そんなことまで描いてしまって大丈夫なのかと心配になるくらいのものを観させられて、笑ってしまいそうになります。
エコロジーは、ゴミも見つめないといけない、ということの先に、こうした(私のような人にとっての)重みがあるとするならば、菊地さんが普段からよくエコロジーという言葉を使われている意味も、よく理解できるように思います。レヴィ=ストロース(ブリコラージュ)とフロイトの近接性といいますか。
現実の経済体制である資本主義と社会主義と関連付けて他の映画監督と比較されていますが、これについても非常に納得のいくものでした。ホン・サンスは「最後の後継者」と語られていましたが、私小説を可能にするような作家性も無く、かといって本人についてのイメージが全く無いわけでもない、ということが、「自由な普通の人」が生きている資本主義の経済システムの肯定の上に成り立っているような気がします。資本主義(というほど大袈裟ではないにしろ、アダム・スミス的な、人間が自動的に構築してしまう経済)をエコロジーの一部として受け入れているというか。資本主義を否定することで生まれる党派性は、これまで掃いて捨てるほど存在してきましたが、ホン・サンスにはその匂いが全くしません。この自由さにとても惹かれます。
同一性が綻んでいってしまうということと、恋、というものを表裏一体のものとして表現したというのが菊地さんの「次の朝は他人」論かと思いますが、その同一性の綻びを、観客が自分から修正し、そこにフレッシュさが生まれることをホン・サンスは信じており、そこにホン・サンスだけの品格がある。というのは、菊地さんにしか書けないものだと思います。こんなに素晴らしいホン・サンス論を読んだことがありません。
『逃げた女』では、こういったフレッシュさは私の力ではあまり感じられず、菊地さんがUOMOで書かれていたように、名作の感じがありました。女たちがあれこれ語っているけれども、誰にもこの主人公が考えていることが分からない、という静けさ、他人との関わりの中での孤独感が印象的でした。
ラジオデイズの質問で出そうと思って出せなかったのですが、「次の朝は他人」論で、『次の朝は他人』は、村上春樹の作品よりも村上春樹の先品に近いはずだということが、村上春樹の作品を読んでもいないのに分かる。それは村上春樹の作品がユング的であるから。と書かれていましたが、それは、ホン・サンスの作品もユング的である、ということなのでしょうか?同一性の綻びという点と、その補正を読者・観客に委ねるという意味で、二人の作品に似ているところはあると感じつつも、村上春樹の方が「ユニバーサルに面白い」力が圧倒的に強いように感じていて、違いも大きいように感じます。
ジェリー・マリガンの『ナイトライツ』大好きです。菊地さんの日記を読んで以来、グレンファークラスにハマっています。ウィスキーに合う盤もいつかご推薦していただけたら嬉しいです。