>>5 <菊地さんは『作家主義 ホン・サンス』収録の「ホン・サンス論」で、「文芸の外にあるもの、わたしたちが本来、見たくないものを撮っている」と語られていますが、私にとっては、ホン・サンスは、人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているものを撮っている、という感じがします。> ↑ 「オー!スジョン」の、まるで日旭旗のような、ベッドシーツに残される経血の跡、は、ここでの「見たくないもの」で、追補にある「3人のアンヌ」での「綺麗でまだ少女性も残しているが、老いたユペールと、主観はガンギマリの2枚目なのに、顔相が、そこらのおっさんにしか見えない監督との、熱烈なキス」等々は「見ようと思っても見ることができないもの」ではないかと思います。 ホン・サンスはグロテスクを、パゾリーニやアントニオーニ等、イタリアの監督のようにスペクタキュラーとしてでなく、自然主義が孕む「汚物」として、大変なホスピタリティの中に転がしますが、<人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているもの>とは、<映画史と人類史が作ったコードの外にあるもの>と言い直せるかもしれません。 <ホン・サンスの映画を見て、全体の印象として心地よいと感じらることはほとんどなく、今回の日記で、私は自覚も無く「愛を求めて見に来てしまう観客」なのかなと思いました。> ↑ ホン・サンスは、女性ライターに「リアル(で、ミステリアス)だ」熱狂される族面もある一方で、「なんか騙されてる気がする」「どうしてもスッキリしない」「居心地が悪い」という反応も引き起こします。僕は前述、「愛」を複合体的、問題と問題解決的に捉えている観客にとって、かなり居心地を悪くするだろうな。と思いますし、それは繰り返しますが、映画史と人類史ががっちり形成してしまった「愛」のあり方と、ホン・サンスの感受性が引き起こすコンフリクトであると思います。韓国のゴダールと言われるのは間違いではありませんが、ゴダールの「愛」は、あの「人形浄瑠璃みたいだ」とまで言われた「女と男がいる舗道」ですら、いじましく、映画史が形成した「愛」をど真ん中に、だからこそかなりの韜晦を盛って盛って描いている事に対して、何か根本から違うと思いますし、他の韓国映画からも全く独立しています。 <このことが、とんでもない攻撃性として捉えられる一方で、「手に入れる事ができるかできないかの二択としての愛」に疲れている観客にとっての癒しになっているのかもしれない、と思いました。> ↑ アムールの国、フランスでは、長い間ベトナム料理は<庭を手入れした時に出るゴミの飾り付けだ>と唾棄されていましたが、ある時から評価が逆転しました。ホン・サンスの映画は、そのことも思い出させてくれます。 <ホン・サンスの映画では、そんなことまで描いてしまって大丈夫なのかと心配になるくらいのものを観させられて、笑ってしまいそうになります> ↑ 有名なズームも、ちょっと気が緩んだら「ガチョーン」みたいなギャグに見えてしまい、観客は困ってしまいます。「あれは笑っていいのかどうか?」という問いさえ、映画批評家はあまり語りません。答えがまだ見つからないからですが、ホン・サンスは、感情のあり方も、映画的にコード化された喜怒哀楽と違う、一種の自然主義の中にあると思います。 <エコロジーは、ゴミも見つめないといけない、ということの先に、こうした(私のような人にとっての)重みがあるとするならば、菊地さんが普段からよくエコロジーという言葉を使われている意味も、よく理解できるように思います。レヴィ=ストロース(ブリコラージュ)とフロイトの近接性といいますか> ↑ 反エコの図式的代表とされる、機械化文明は、「ゴミを量産する文明」として認識されていますが、これはエコロジカルに捉えれば「人間は(文明が進めば進むほど)ゴミを出す」という考え方になると思います。これは逆説的に、人類が「ゴミ」を規定する事になります。 なので、腐食や、動植物、昆虫などの生殖行為、死骸など、自然に生じる=エコロジカルな(人間の目から見た)グロテスクを、人間は何らかの形に解釈しないといけない。解釈は面倒臭く、また難しいので、多く保留になります。そこに表現の可能性が眠っており、フロイドもストロースも、この点には高い関心を払っています。ホン・サンスの表現には「性欲」「セックス」に対するグロテスクを衒いなくフィクスする事で(特に「映画的」な)「愛」という複合体を、自然な手さばきでほぐしていると思っています。 <現実の経済体制である資本主義と社会主義と関連付けて他の映画監督と比較されていますが、これについても非常に納得のいくものでした。ホン・サンスは「最後の後継者」と語られていましたが、私小説を可能にするような作家性も無く、かといって本人についてのイメージが全く無いわけでもない、ということが、「自由な普通の人」が生きている資本主義の経済システムの肯定の上に成り立っているような気がします。資本主義(というほど大袈裟ではないにしろ、アダム・スミス的な、人間が自動的に構築してしまう経済)をエコロジーの一部として受け入れているというか。資本主義を否定することで生まれる党派性は、これまで掃いて捨てるほど存在してきましたが、ホン・サンスにはその匂いが全くしません。この自由さにとても惹かれます> ↑ 同感です。ホン・サンスは、大韓民国の中では、ものすごい意識高い系の勝ち組社会(「富裕層」とかではなく)しか描きません。なので特権的だという批判もありますが、「自由な普通の人」たちが、SNSを手にし、個人がそのままメディア化されてゆく時代の中で(概ね誰もが資本主義体制を批判する媒体と化してゆく中で)、ホン・サンスは、いわゆる加速主義的なアクセルではなく、本当のスロー、というか、タイムレスを描いているので、「エコなんて金持ちの道楽だ」といった、高等遊民的なエレガンスともまた別な、何か生得的な倫理のようなものがあり、そこが際立っていると思います。 <同一性が綻んでいってしまうということと、恋、というものを表裏一体のものとして表現したというのが菊地さんの「次の朝は他人」論かと思いますが、その同一性の綻びを、観客が自分から修正し、そこにフレッシュさが生まれることをホン・サンスは信じており、そこにホン・サンスだけの品格がある。というのは、菊地さんにしか書けないものだと思います。こんなに素晴らしいホン・サンス論を読んだことがありません。> ↑ ありがとうございます。 <『逃げた女』では、こういったフレッシュさは私の力ではあまり感じられず、菊地さんがUOMOで書かれていたように、名作の感じがありました。女たちがあれこれ語っているけれども、誰にもこの主人公が考えていることが分からない、という静けさ、他人との関わりの中での孤独感が印象的でした> ↑ あれはダイアログとアクションの交差が極点的に高いせいで、時間軸や世界線の操作が不要に至った名作だと思います。 <ラジオデイズの質問で出そうと思って出せなかったのですが、「次の朝は他人」論で、『次の朝は他人』は、村上春樹の作品よりも村上春樹の先品に近いはずだということが、村上春樹の作品を読んでもいないのに分かる。それは村上春樹の作品がユング的であるから。と書かれていましたが、それは、ホン・サンスの作品もユング的である、ということなのでしょうか?同一性の綻びという点と、その補正を読者・観客に委ねるという意味で、二人の作品に似ているところはあると感じつつも、村上春樹の方が「ユニバーサルに面白い」力が圧倒的に強いように感じていて、違いも大きいように感じます。> ↑ ユング性はフロイディアンであればあるほど強く意識されます。僕は、今では当たり前になった、多元宇宙や世界線の多層、時間軸シャッフルの開放性の根源は、ほとんどユングにあり、フロイドは個人の物語を突き詰めた結果、汎用的な物語に到達したと思っており(=多くのアメコミ型ヒーロー譚の脚本が、ユング式の象徴よりも、フロイド的な母子、父子関係やトラウマとその昇華、言語による治癒を骨子としている事で、「ユング的」な物語性を両翼を担っている感があります)、ややアクロバティックですが、村上春樹の小説は「読んだことがないのに、読んだ気にさせる力」、つまり集合無意識の肯定が 前提化されていると感じています。 ホン・サンスは、まるで前提のように世界線の並走やタイムシャッフルを使いますので、僕個人にはユング的に思えます。音楽にこれを取り入れるのはかなり難しい。映画と小説には取り入れやすい気がします。そういう意味で両者は似ていますが、村上春樹の小説を読み、エッセイを読み、(特に)ラジオを聴き、ということを進めて行くと、村上春樹が、結構ベタなスペクタキュラーを振り回していることも分かってきて、前述アクロバティックな論法は「村上春樹の初期作品」という風に限定しないと効力が失われてきているな、とは思います。
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<菊地さんは『作家主義 ホン・サンス』収録の「ホン・サンス論」で、「文芸の外にあるもの、わたしたちが本来、見たくないものを撮っている」と語られていますが、私にとっては、ホン・サンスは、人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているものを撮っている、という感じがします。>
↑ 「オー!スジョン」の、まるで日旭旗のような、ベッドシーツに残される経血の跡、は、ここでの「見たくないもの」で、追補にある「3人のアンヌ」での「綺麗でまだ少女性も残しているが、老いたユペールと、主観はガンギマリの2枚目なのに、顔相が、そこらのおっさんにしか見えない監督との、熱烈なキス」等々は「見ようと思っても見ることができないもの」ではないかと思います。
ホン・サンスはグロテスクを、パゾリーニやアントニオーニ等、イタリアの監督のようにスペクタキュラーとしてでなく、自然主義が孕む「汚物」として、大変なホスピタリティの中に転がしますが、<人間が生きるために、見ようと思っても見ることのできないようにされているもの>とは、<映画史と人類史が作ったコードの外にあるもの>と言い直せるかもしれません。
<ホン・サンスの映画を見て、全体の印象として心地よいと感じらることはほとんどなく、今回の日記で、私は自覚も無く「愛を求めて見に来てしまう観客」なのかなと思いました。>
↑ ホン・サンスは、女性ライターに「リアル(で、ミステリアス)だ」熱狂される族面もある一方で、「なんか騙されてる気がする」「どうしてもスッキリしない」「居心地が悪い」という反応も引き起こします。僕は前述、「愛」を複合体的、問題と問題解決的に捉えている観客にとって、かなり居心地を悪くするだろうな。と思いますし、それは繰り返しますが、映画史と人類史ががっちり形成してしまった「愛」のあり方と、ホン・サンスの感受性が引き起こすコンフリクトであると思います。韓国のゴダールと言われるのは間違いではありませんが、ゴダールの「愛」は、あの「人形浄瑠璃みたいだ」とまで言われた「女と男がいる舗道」ですら、いじましく、映画史が形成した「愛」をど真ん中に、だからこそかなりの韜晦を盛って盛って描いている事に対して、何か根本から違うと思いますし、他の韓国映画からも全く独立しています。
<このことが、とんでもない攻撃性として捉えられる一方で、「手に入れる事ができるかできないかの二択としての愛」に疲れている観客にとっての癒しになっているのかもしれない、と思いました。>
↑ アムールの国、フランスでは、長い間ベトナム料理は<庭を手入れした時に出るゴミの飾り付けだ>と唾棄されていましたが、ある時から評価が逆転しました。ホン・サンスの映画は、そのことも思い出させてくれます。
<ホン・サンスの映画では、そんなことまで描いてしまって大丈夫なのかと心配になるくらいのものを観させられて、笑ってしまいそうになります>
↑ 有名なズームも、ちょっと気が緩んだら「ガチョーン」みたいなギャグに見えてしまい、観客は困ってしまいます。「あれは笑っていいのかどうか?」という問いさえ、映画批評家はあまり語りません。答えがまだ見つからないからですが、ホン・サンスは、感情のあり方も、映画的にコード化された喜怒哀楽と違う、一種の自然主義の中にあると思います。
<エコロジーは、ゴミも見つめないといけない、ということの先に、こうした(私のような人にとっての)重みがあるとするならば、菊地さんが普段からよくエコロジーという言葉を使われている意味も、よく理解できるように思います。レヴィ=ストロース(ブリコラージュ)とフロイトの近接性といいますか>
↑ 反エコの図式的代表とされる、機械化文明は、「ゴミを量産する文明」として認識されていますが、これはエコロジカルに捉えれば「人間は(文明が進めば進むほど)ゴミを出す」という考え方になると思います。これは逆説的に、人類が「ゴミ」を規定する事になります。
なので、腐食や、動植物、昆虫などの生殖行為、死骸など、自然に生じる=エコロジカルな(人間の目から見た)グロテスクを、人間は何らかの形に解釈しないといけない。解釈は面倒臭く、また難しいので、多く保留になります。そこに表現の可能性が眠っており、フロイドもストロースも、この点には高い関心を払っています。ホン・サンスの表現には「性欲」「セックス」に対するグロテスクを衒いなくフィクスする事で(特に「映画的」な)「愛」という複合体を、自然な手さばきでほぐしていると思っています。
<現実の経済体制である資本主義と社会主義と関連付けて他の映画監督と比較されていますが、これについても非常に納得のいくものでした。ホン・サンスは「最後の後継者」と語られていましたが、私小説を可能にするような作家性も無く、かといって本人についてのイメージが全く無いわけでもない、ということが、「自由な普通の人」が生きている資本主義の経済システムの肯定の上に成り立っているような気がします。資本主義(というほど大袈裟ではないにしろ、アダム・スミス的な、人間が自動的に構築してしまう経済)をエコロジーの一部として受け入れているというか。資本主義を否定することで生まれる党派性は、これまで掃いて捨てるほど存在してきましたが、ホン・サンスにはその匂いが全くしません。この自由さにとても惹かれます>
↑ 同感です。ホン・サンスは、大韓民国の中では、ものすごい意識高い系の勝ち組社会(「富裕層」とかではなく)しか描きません。なので特権的だという批判もありますが、「自由な普通の人」たちが、SNSを手にし、個人がそのままメディア化されてゆく時代の中で(概ね誰もが資本主義体制を批判する媒体と化してゆく中で)、ホン・サンスは、いわゆる加速主義的なアクセルではなく、本当のスロー、というか、タイムレスを描いているので、「エコなんて金持ちの道楽だ」といった、高等遊民的なエレガンスともまた別な、何か生得的な倫理のようなものがあり、そこが際立っていると思います。
<同一性が綻んでいってしまうということと、恋、というものを表裏一体のものとして表現したというのが菊地さんの「次の朝は他人」論かと思いますが、その同一性の綻びを、観客が自分から修正し、そこにフレッシュさが生まれることをホン・サンスは信じており、そこにホン・サンスだけの品格がある。というのは、菊地さんにしか書けないものだと思います。こんなに素晴らしいホン・サンス論を読んだことがありません。>
↑ ありがとうございます。
<『逃げた女』では、こういったフレッシュさは私の力ではあまり感じられず、菊地さんがUOMOで書かれていたように、名作の感じがありました。女たちがあれこれ語っているけれども、誰にもこの主人公が考えていることが分からない、という静けさ、他人との関わりの中での孤独感が印象的でした>
↑ あれはダイアログとアクションの交差が極点的に高いせいで、時間軸や世界線の操作が不要に至った名作だと思います。
<ラジオデイズの質問で出そうと思って出せなかったのですが、「次の朝は他人」論で、『次の朝は他人』は、村上春樹の作品よりも村上春樹の先品に近いはずだということが、村上春樹の作品を読んでもいないのに分かる。それは村上春樹の作品がユング的であるから。と書かれていましたが、それは、ホン・サンスの作品もユング的である、ということなのでしょうか?同一性の綻びという点と、その補正を読者・観客に委ねるという意味で、二人の作品に似ているところはあると感じつつも、村上春樹の方が「ユニバーサルに面白い」力が圧倒的に強いように感じていて、違いも大きいように感じます。>
↑ ユング性はフロイディアンであればあるほど強く意識されます。僕は、今では当たり前になった、多元宇宙や世界線の多層、時間軸シャッフルの開放性の根源は、ほとんどユングにあり、フロイドは個人の物語を突き詰めた結果、汎用的な物語に到達したと思っており(=多くのアメコミ型ヒーロー譚の脚本が、ユング式の象徴よりも、フロイド的な母子、父子関係やトラウマとその昇華、言語による治癒を骨子としている事で、「ユング的」な物語性を両翼を担っている感があります)、ややアクロバティックですが、村上春樹の小説は「読んだことがないのに、読んだ気にさせる力」、つまり集合無意識の肯定が
前提化されていると感じています。
ホン・サンスは、まるで前提のように世界線の並走やタイムシャッフルを使いますので、僕個人にはユング的に思えます。音楽にこれを取り入れるのはかなり難しい。映画と小説には取り入れやすい気がします。そういう意味で両者は似ていますが、村上春樹の小説を読み、エッセイを読み、(特に)ラジオを聴き、ということを進めて行くと、村上春樹が、結構ベタなスペクタキュラーを振り回していることも分かってきて、前述アクロバティックな論法は「村上春樹の初期作品」という風に限定しないと効力が失われてきているな、とは思います。