>>7 僕が物事をよく見たり聞いたりする力を身に着けることが出来た(もちろん、先人にはまだまだ追いつけませんが)のは菊地さんの諸作品・諸活動があるからです。ありがとうございます。 インターネットというのはその初めにはオタク/エリート的なものでその世界の歩き方がわからない者は容赦なく酷い目に合うという閉じた世界の陰険さもあったものでしたよね(僕もその昔にはそれらの洗礼を受けて、電話回線を海外に勝手につなげられたり、とんでもないグロテスクなものが写っている写真を見せられました(笑))。顔写真や個人情報がネットに出たら一生外を歩けなくなる、くらいにも言われていて。最初のころは敷居は在り……と書いたところで思ったのですが、この時から1度その中には入れた者はもうそこに同化している、液状化の文化が出来ていたんですね。店/客の文化がないというか、客というのは、屋内には招いたけれども他人ではある/屋内には入ったがここは自宅ではない、という認識がしっかりあるものですものね。ネットにおいてギリギリでそれを守る……というか模倣したものとして「ホームページ」なんてものがあって、SNS、という社会を繋ぐと名乗るサービスがその家々の多くと共に主人/客文化を破壊して、液状化に拍車をかけたのだと思います。ドゥルーズが「接続することと同価値に切断することがある」と言っていると最近の色々な本で書いてあったり、それこそ接続/切断はフロイドの黄金のアイデアの1つですが、ほんとうにこの接続/切断という意識はSNSを利用する(もはや”SNSを利用する”という概念すら希薄になっていますが)うえで大切ですね。(そうしないと接続されていることに気が付かない『マトリックス』になってしまうというか、あの映画は接続された世界で、自分が接続させられていたことに気が付いた者が、接続した世界では一番の力を持つ、という寓話としてみると面白いなぁといま思いました。そんなのはそれを鎖に変えて『スパルタカス』の時代から変わっていないという話だとも思うんですが。) ネット社会にもその時々で特有の言い回しや挨拶の仕方があって、でもそれが古来は2ちゃんねるの用語やいまではTwitter独特のいい回しとか、すべて利用者を液状化するべく機能していますね(僕は大きな顔をしてやっているあれが嫌いで嫌いで。陰とかコスプレで行われてるのは好きなんですが)。挨拶や作法の機能が、高倉健主演の映画で池部良が切っていた仁義なんかとは逆になっています(作中の最後で高倉と池部は最大の液状化を起こすわけですが。でもあれは延々に客人である者との液状化だから感動するんですね)。 火事と喧嘩は江戸の華、とはダブルミーニングである。とはこれも菊地さんが確かお書きになっていて、その当時うおぁ面白い、と調べたら、消防歴史博物館みたいなところが出した本にだけはそれが書いてあって、感心しました。いまでは「喧嘩している」とか「喧嘩だ!」とはあまり言わなくも聞かなくもなりました。あっても夫婦とか恋人間のそれだけです。いまやネット以外の場所で起こった諍いですら炎上です。でも喧嘩はこれからは凄くいいですね。「〇〇と〇〇が炎上!」なんかより「〇〇と〇〇が喧嘩!」のほうが圧倒的に面白いです。喧嘩、というある時期から賭場や祭りと強く関連するようになった言葉と行為には、仰る通りの売買と勝敗の明確さの価値があります。火事と喧嘩は江戸の華、の火消しは鎮火のために喧嘩をしていたのに、炎上では誰もが被害者になってしまう(大抵の場合で、本当は関係すらないのに)という液状化が起こっていますね。火事と喧嘩~はやっぱ行為が派手なのはもちろん、その行為が派手でなくてはなしえないこと、そして最後には場を鎮めるからこそ華だったのでしょうね。 ネットは人類が生み出した、というのはカイヨワの戦争論を参照して仰る通りだと思いますし、バタイユの消尽論を経由して、DC/PRGのミラーボール理論の大切さがよくわかります。液状化には疑似/演技があり得ませんし、きちんとした設定もフォームもなく、炎上はするのに、喧嘩もありませんから。そしてそのうえでSNSを愛している者は、菊地さんのSNS批判を有益なものとして聞けばいいのですが、そうなっていないのは、多くの者がSNSが実はつらいというか、依存症になっているからなのでしょうね。
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>>7
僕が物事をよく見たり聞いたりする力を身に着けることが出来た(もちろん、先人にはまだまだ追いつけませんが)のは菊地さんの諸作品・諸活動があるからです。ありがとうございます。
インターネットというのはその初めにはオタク/エリート的なものでその世界の歩き方がわからない者は容赦なく酷い目に合うという閉じた世界の陰険さもあったものでしたよね(僕もその昔にはそれらの洗礼を受けて、電話回線を海外に勝手につなげられたり、とんでもないグロテスクなものが写っている写真を見せられました(笑))。顔写真や個人情報がネットに出たら一生外を歩けなくなる、くらいにも言われていて。最初のころは敷居は在り……と書いたところで思ったのですが、この時から1度その中には入れた者はもうそこに同化している、液状化の文化が出来ていたんですね。店/客の文化がないというか、客というのは、屋内には招いたけれども他人ではある/屋内には入ったがここは自宅ではない、という認識がしっかりあるものですものね。ネットにおいてギリギリでそれを守る……というか模倣したものとして「ホームページ」なんてものがあって、SNS、という社会を繋ぐと名乗るサービスがその家々の多くと共に主人/客文化を破壊して、液状化に拍車をかけたのだと思います。ドゥルーズが「接続することと同価値に切断することがある」と言っていると最近の色々な本で書いてあったり、それこそ接続/切断はフロイドの黄金のアイデアの1つですが、ほんとうにこの接続/切断という意識はSNSを利用する(もはや”SNSを利用する”という概念すら希薄になっていますが)うえで大切ですね。(そうしないと接続されていることに気が付かない『マトリックス』になってしまうというか、あの映画は接続された世界で、自分が接続させられていたことに気が付いた者が、接続した世界では一番の力を持つ、という寓話としてみると面白いなぁといま思いました。そんなのはそれを鎖に変えて『スパルタカス』の時代から変わっていないという話だとも思うんですが。)
ネット社会にもその時々で特有の言い回しや挨拶の仕方があって、でもそれが古来は2ちゃんねるの用語やいまではTwitter独特のいい回しとか、すべて利用者を液状化するべく機能していますね(僕は大きな顔をしてやっているあれが嫌いで嫌いで。陰とかコスプレで行われてるのは好きなんですが)。挨拶や作法の機能が、高倉健主演の映画で池部良が切っていた仁義なんかとは逆になっています(作中の最後で高倉と池部は最大の液状化を起こすわけですが。でもあれは延々に客人である者との液状化だから感動するんですね)。
火事と喧嘩は江戸の華、とはダブルミーニングである。とはこれも菊地さんが確かお書きになっていて、その当時うおぁ面白い、と調べたら、消防歴史博物館みたいなところが出した本にだけはそれが書いてあって、感心しました。いまでは「喧嘩している」とか「喧嘩だ!」とはあまり言わなくも聞かなくもなりました。あっても夫婦とか恋人間のそれだけです。いまやネット以外の場所で起こった諍いですら炎上です。でも喧嘩はこれからは凄くいいですね。「〇〇と〇〇が炎上!」なんかより「〇〇と〇〇が喧嘩!」のほうが圧倒的に面白いです。喧嘩、というある時期から賭場や祭りと強く関連するようになった言葉と行為には、仰る通りの売買と勝敗の明確さの価値があります。火事と喧嘩は江戸の華、の火消しは鎮火のために喧嘩をしていたのに、炎上では誰もが被害者になってしまう(大抵の場合で、本当は関係すらないのに)という液状化が起こっていますね。火事と喧嘩~はやっぱ行為が派手なのはもちろん、その行為が派手でなくてはなしえないこと、そして最後には場を鎮めるからこそ華だったのでしょうね。
ネットは人類が生み出した、というのはカイヨワの戦争論を参照して仰る通りだと思いますし、バタイユの消尽論を経由して、DC/PRGのミラーボール理論の大切さがよくわかります。液状化には疑似/演技があり得ませんし、きちんとした設定もフォームもなく、炎上はするのに、喧嘩もありませんから。そしてそのうえでSNSを愛している者は、菊地さんのSNS批判を有益なものとして聞けばいいのですが、そうなっていないのは、多くの者がSNSが実はつらいというか、依存症になっているからなのでしょうね。