>>13 追記ですが、大蓮實は明らかにギュスターヴ・フローベールの中毒患者と言えます。ですがどうですかあの健康体。フランスはアル中(そのほとんどがワイン中毒ですが)大国です。フランスという国は依存性と中毒性の塊みたいなところがある。その中でも、フローベールを選択し、自身の体躯にあった共生をしている姿には本当に頭が下がります。 以下、次の本にも書き切れなかった事なんで、ここに書きますんで、シネフィルは絶対読んでください。 僕は先生と、公開という形の対談は一回だけ行っています(「ユングのサウンドトラック」収録)。その際、僕のライフワークでもある、視聴覚の祖語と愛に関する話題がほんの一瞬だけ出ました。それは極めて大雑把にいうと、「映像と音声のシンクロがずれているのは美しい」という事です。 その際、ノーモーションで(つまり、話が振られて瞬間にもう回答した。という意味ですが)先生がおっしゃったのが、日本のドキュメンタリー作家、土本典昭の「水俣 その患者さんの世界」でした。これがシンクずれ作品の中で一番美しいと即答されたんです。 僕も既鑑でしたので、その場では納得し、後にツベルクリンで検索して改めて観直しました。ものの数分分しか発見できませんでしたが、それは惚れ惚れするようなズレで、「流石は大蓮」と大いに納得し、DVDを購入しました。 これだけだったら、単なる普通の慧眼です。 止まれ、凡才である僕は、芸大等のアカデミックな講義の際に、この映像を教材として使い倒しました。「録音 (マイク)と録画(キャメラ)のシンクロが、貧困によって成し得なかったのだ」という認識でした。 先日、エンブゼミナールという「カメ止め」の制作陣を生み出した専門学校で映画に関する講義をしました。当然そこには「水俣」が教材として使われます。「このシンクのズレは異様に美しい」という程度の解説で。 そうしたら、生徒さんのお一人が、古本屋で土本監督の貴重なインタビューが載った古書を見つけたんです。 そこには驚愕の事実が記されていました。 「水俣」は、同時に録音、録画された映像と音声が、シンクロできなかった、というリージョンではなく、そもそも、録画に併せて、それらしいインタビューを別個に録音し、それを重ねたので、ズレているのでした。逆パターン、つまり、録音したインタビューに合わせてインタビューカットを別撮りしたものもあったそうです。 貧困は、僕が想像していた「同録の両者をシンクロできない」というリージョンをはるかに超えて「そもそも同録はできなかった」んです。理由は、当時の安価のカメラの音の駆動音が大きすぎ、同録してもそのノイズが入るので、別々に取るしかなかった。それを、後で、「あたかも同録したような態で」重ねたんですね。 土本監督は、第一には「これは日本でしか、行われない手法だ」と言っていますが、おそらく「我々のチームでしかやっていない」が正しいでしょう。そして第二には「この手法によってしか得られない、独特のリアリズムがある」と言っています。 マニアの方ならもうお分かりだと思います。僕が「デギュスタシオン・ア・ジャズ」でやろうとした事の、ほぼそのものです。僕の方は貧困ではなく、当時最新のテクノロジーだったコンピューターソフトを使ってのことなので、プロレタリアートの逆で、貴族主義ですが。 大蓮實が、この事実をあらかじめ知っており、他のドキュメンタリー作家(例えば、フレデリックワイズマン)や、敢えてシンクを外した劇映画の作家(例えば熊井啓)等の作品と比べた上で、持論としてずっと「水俣」を最上としていた。とは、とても考えられません。 観える人には観えるんです。先生の有名な発言に「行間には何も書いてありません」というものがあります。「水俣」の画像と音声は、行間にあるブラインド情報ではありません。開示情報です。表層を徹底的に観て、感じる動体視力というのは、これのことだ。と令和になってから思い知った僕は幸福だと思います。
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>>13
追記ですが、大蓮實は明らかにギュスターヴ・フローベールの中毒患者と言えます。ですがどうですかあの健康体。フランスはアル中(そのほとんどがワイン中毒ですが)大国です。フランスという国は依存性と中毒性の塊みたいなところがある。その中でも、フローベールを選択し、自身の体躯にあった共生をしている姿には本当に頭が下がります。
以下、次の本にも書き切れなかった事なんで、ここに書きますんで、シネフィルは絶対読んでください。
僕は先生と、公開という形の対談は一回だけ行っています(「ユングのサウンドトラック」収録)。その際、僕のライフワークでもある、視聴覚の祖語と愛に関する話題がほんの一瞬だけ出ました。それは極めて大雑把にいうと、「映像と音声のシンクロがずれているのは美しい」という事です。
その際、ノーモーションで(つまり、話が振られて瞬間にもう回答した。という意味ですが)先生がおっしゃったのが、日本のドキュメンタリー作家、土本典昭の「水俣 その患者さんの世界」でした。これがシンクずれ作品の中で一番美しいと即答されたんです。
僕も既鑑でしたので、その場では納得し、後にツベルクリンで検索して改めて観直しました。ものの数分分しか発見できませんでしたが、それは惚れ惚れするようなズレで、「流石は大蓮」と大いに納得し、DVDを購入しました。
これだけだったら、単なる普通の慧眼です。
止まれ、凡才である僕は、芸大等のアカデミックな講義の際に、この映像を教材として使い倒しました。「録音
(マイク)と録画(キャメラ)のシンクロが、貧困によって成し得なかったのだ」という認識でした。
先日、エンブゼミナールという「カメ止め」の制作陣を生み出した専門学校で映画に関する講義をしました。当然そこには「水俣」が教材として使われます。「このシンクのズレは異様に美しい」という程度の解説で。
そうしたら、生徒さんのお一人が、古本屋で土本監督の貴重なインタビューが載った古書を見つけたんです。
そこには驚愕の事実が記されていました。
「水俣」は、同時に録音、録画された映像と音声が、シンクロできなかった、というリージョンではなく、そもそも、録画に併せて、それらしいインタビューを別個に録音し、それを重ねたので、ズレているのでした。逆パターン、つまり、録音したインタビューに合わせてインタビューカットを別撮りしたものもあったそうです。
貧困は、僕が想像していた「同録の両者をシンクロできない」というリージョンをはるかに超えて「そもそも同録はできなかった」んです。理由は、当時の安価のカメラの音の駆動音が大きすぎ、同録してもそのノイズが入るので、別々に取るしかなかった。それを、後で、「あたかも同録したような態で」重ねたんですね。
土本監督は、第一には「これは日本でしか、行われない手法だ」と言っていますが、おそらく「我々のチームでしかやっていない」が正しいでしょう。そして第二には「この手法によってしか得られない、独特のリアリズムがある」と言っています。
マニアの方ならもうお分かりだと思います。僕が「デギュスタシオン・ア・ジャズ」でやろうとした事の、ほぼそのものです。僕の方は貧困ではなく、当時最新のテクノロジーだったコンピューターソフトを使ってのことなので、プロレタリアートの逆で、貴族主義ですが。
大蓮實が、この事実をあらかじめ知っており、他のドキュメンタリー作家(例えば、フレデリックワイズマン)や、敢えてシンクを外した劇映画の作家(例えば熊井啓)等の作品と比べた上で、持論としてずっと「水俣」を最上としていた。とは、とても考えられません。
観える人には観えるんです。先生の有名な発言に「行間には何も書いてありません」というものがあります。「水俣」の画像と音声は、行間にあるブラインド情報ではありません。開示情報です。表層を徹底的に観て、感じる動体視力というのは、これのことだ。と令和になってから思い知った僕は幸福だと思います。