小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。
こういうことがある。例えば、起きてから何も食べずに夕方までだらだらと家で過ごして、限界まで腹を空かして、やっと何か食べなければと家を出る。だが、店のあるところをフラフラと何十分も歩きまわって、どれもそんなに食べたくないという気がして、限界まで腹を空かしているのにそのまま帰ってしまう。あるいは真冬に、外に着て行けるコートが一枚もなくて、外出がままならないので、意を決して服を買いに寒い町に出かけるのだが、さんざん歩きまわって、気に入ったのがなかったと一枚も買わずに帰ってくる。
こういう切羽詰まった状況を突きつけられてようやく気付くのだが、どうやら私は自分の生活をあまりにも自分の好きなものだけで構成しようとこだわるきらいがある。それで美しく洗練された生活が送れるのなら儲けものだが、実際はかわりに穴の空いたボロボロの服を着て、味があればそれでいいといような態度のカップ麺をすすっているのだから始末が悪い。最初から適度に妥協していればこんなことにはならなかったのである。
もしかして、この「好きなものだけで自分を構成しようとする」という性質が自分の精神の脆さの一因となっているのではないかと考えたこともある。
たとえば人間の体でも、まず皮膚があり、皮下脂肪、筋肉があって、それからやっと内臓や骨といった重要部分が現われる。いきなり内臓が露出している人というのはそうは見ない。もしいたら、その人は転倒による擦り傷等で即死するほど脆いだろう。同じことを精神に当てはめれば、本当に好きな一部のものしか認めず、そればかりで自分を構成しているというのは、かの内臓まるだし人間のごとく常に精神の脆弱な部分を露出しているに違わず、ことあるごとに神経をすり減らしながら生きなければならないのではあるまいか。
だとすれば、だ。私たちは、自分にとってそう重要でないもの──そこまで好きでない創作物、いけ好かないところのある人間との関係、嫌いではないがやりたくもない仕事──そういったものを意図的に身につけ、自分の精神の核を守らなければならない。好きなものばかりで身の回りを固め、自我を肥大させている現状は的外れもいいところなのである。
この「どうでもいいものが自我を守る」という考えはなかなか説得力があって、自分でも気に入っていたのだが、ふと部屋を見回して自分がいかにどうでもいいものに囲まれているかを自覚すると同時に興味を失ってしまった。自分を守るなどというのは守るべき自分がいてからの話だ。
※本記事は週刊アスキー3/24号(3月10日発売)の記事を転載したものです。
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