Mythe et poeme のコメント

ここ数週で知り合いが相次いで交通事故死した。ひとりは視覚障碍者が一般道を横断中に、ひとりは高齢者が横断歩道を横断中に。
シートベルト着用義務が行なわれるようになって、交通事故死の状態別では「歩行中」が1位になったということだ。しかし、高齢者では、約半数が「歩行中」で亡くなっている。
歩行者の多くが経験していると思うが、横断歩道の手前でスピードを落として歩行者を渡らせる運転者はきわめて少数である。
普段は気づかいが出来る人でも、車に乗ると「人格が変わる」のだろうか?
あるいは、人間というものは、そもそも冷酷で、他者の命などどうとでも思っていないのだろうか?
色々なご意見があろうが、ここで少なくとも見落とせないのは、体力や判断力の点でハンディキャップを抱えている人たちが交通事故の犠牲者となっている割合が多いということである。
そうでなくても、歩行者が車に轢かれて死んでいるということであって、「歩行者優先」などは絵空事となっている。

こういうことを社会心理的な状況としてながめていると、経済的な理由や、人間関係・家族関係などの理由から人が追い込まれていっても、ほとんど誰も手を差し伸べてくれない風景とつながっていることが見えてくる。自殺者が6倍だからどうという以上に、自殺や交通事故死を含めて、その死に方が弱者に偏ってあらわれてくることが見えるはずだ。
そして、視覚障害者や高齢者には、社会的な権利を要求する力も権利も乏しいのが実情である。
年を取ると地方の活性化のためにと田舎に住むことまで薦められる始末である。

今から5年ほど前に、五木寛之が『親鸞』を刊行したころ、闇がおりてきて、弱者を切り捨てる時代が始まったと言っておられたが、作家の眼は、正確だなと思う。

だが、本当の問題はもっと奥の、奥の方に、つまり心の問題としてあるのではないか。
つまり、朝の通勤中の視覚障碍者がはねられ、今まで何の病気もしなかった健康な83歳がはねられても、そのことに何も感じない「こころ」である。

「なまぽ」という言葉で生活保護受給者を貶めることが問題になっていたことがあったが、そういうことが平気で言える感性と根は同じであろう。

・・・『プライベート・ライアン』という映画では、戦争で撃たれた兵士がお腹から臓物をはみ出させて「ママ!」といっていたシーンがあったと思うが、ああいうシーンをなぜ戦争映画が敢えて入れているか。
あれを見れば誰しも戦争ってむごたらしいものだと直観せざるを得ないからだろう。

だが、実際には、ああいうシーンを見ても、あまり何も考えない人もいるのである。
経済的な理由で人が膨大に死んでも何も考えず、何も感じない人がいるのと同じように。

No.8 109ヶ月前

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