日本のメディアの取り上げ方は、全体の歴史を無視して、都合のよい断片だけを伝ており、それによって間違った世論を形成している。かつて暴支膺懲などが戦前の紙面をにぎわしたが、歴史をマクロに見れば、噴飯ものである。そして今また、そのような雰囲気が作られつつある。尖閣の問題がこれほど大きくなった直接の原因は、石原発言とその後の国有化であったことを、すでに国民は忘れて、すべてを中国側のせいにしている。 この独りよがりの体質は、今回の安保法制にも引き継がれている。安保法制がわかりにくいのは、その法案の多さや説明内容に矛盾や曖昧な部分があるからだけではない。その根底にある安倍氏やその取り巻き連の心の中にある思い、言葉に出して言わない思いが法案を一層わかりにくくしている。 そもそも、安倍氏は戦後レジュームからの脱却を主張していたはずである。戦後レジュームは、敗戦の結果できたものである。そしてこれを否定することは、敗戦を否定し敗戦前の日本が良かったということにつながっていく。「日本を取り戻す」と彼が言うのは、この意味であろう。しかし、日本が敗戦したのは否定しようのない事実である。ポツダム宣言を受け入れて降伏したことは、いくら頑迷な歴史修正主義者でも否定できることではない。さすがに彼もそれを認めている。 ではどうするか。ここで、話がややこしくなっていく。私たちが考えなければならないことは、同じ言葉を使っても、その意味が人によって異なるということである。彼は、敗戦した事実は認めても、敗戦に至った国策を誤りと認めず、先の戦争を侵略戦争と認めていないという事実がある。一方で、彼は反省しているという。しかし彼の言う反省には、国策の誤りも侵略のお詫びも当然含まれていない。事実、彼は国会で何度問われても、その言葉を決して口に出して言わない。かたくなに拒否している。 私たちはこの事実から、反省は彼にとって、単に「負けたことを反省する」ことにほかならないことを読み取ることができる。国策を誤り無謀な戦争を引き起こしたこと、侵略をして多くの犠牲者を国内外に生み出したことへの認識と謝罪は彼の反省の中身にはない。彼にとって先の戦争に対する反省は、一般に言われているのと全く意味が違うのだ。 するとどうなるか。「次はうまくやって勝つ。そのためには、何を反省しているかは語らずに、単に反省という言葉で目くらまししておいて、次の機会を狙う。もちろん、今のところアメリカの言いなりになるのもやむを得ない。」と考えているとするなら、それがいいか悪いかは別にして、彼の言動には整合性がある。 この点で、「安倍氏は日米同盟、軍事協力を理由に、日本の軍事力強化を目指していると思う」と述べた小沢氏の話は、かなりの程度正鵠を得ていると思う。 安倍氏と彼の取り巻き、多くの自民党議員がそれを目指すのは彼らの勝手である。問題は、そのことを隠していることである。議員によっては、意識的にではなく、無意識の心の底にそのような思いがあり、本人は自覚的でないかもしれない。しかし、彼らの多くは彼らの憎む戦後レジームと戦後憲法から多くのメリットを享受している。自らが否定している基盤によって、自らが成り立っていること、そしてそれによるメリットを手放さず、むしろ貪欲にそれを求めていること。ここに矛盾がある。 はたして、人間はこのような矛盾に耐えられるであろうか。平和といいながら平和の意味が違うこと、安全といいながら安全の意味が違うこと、つまり正しく言葉を使わずに歪曲して使っていることに、矛盾を生きる彼らの病状が露出している。国会議員としての彼らの存在自体が、矛盾の上に成り立っている。 さて、さらに問題なのは、このような政治に対して、日本国民の本当の思いはどこにあるかである。先の戦争が悲惨な戦争であったことは知っている。無謀な戦争であったことは知っている。広島長崎の犠牲者のことも忘れてはいない。もちろん、それを上回る圧倒的なアジアの犠牲者のことも知っている。歴史のどこを見ても、日本に言い訳の余地はないことも感じている。 そしてその認識は正しい。個々の些末な事例を持ち出しても、歴史の大局は微動だにしないことは、少し想像力があればすぐにわかることである。たとえば、ろくに食料も持たせずに、二百数十万人の兵隊を15年以上の長きにわたって他国に投入すれば、そこで何が起こるかを想像してみればよい。先の戦争を侵略でなかったと否定することは、一般的には不可能である。 しかし日本人にはそれは可能かもしれない。なぜなら、福島原発事故のことでさえ、数年たてば何もなかったかのように忘れることが出来る国民だからである。自国で起きた現在進行中の事故にも関わらず無関心で、誰も罪に問われない。それどころか原発再稼働を推進し、輸出さえしようとしていることに多くの国民は無関心である。70年にわたる沖縄駐留米軍のことにも、基本的に無関心である。まして、70年以上前の戦争のことなんか関係ないのである。 「何度謝ったらすむのか」。戦争の謝罪について、最近よく聞く言葉である。人を殺して、その遺族に対して「何度謝ったらすむのか」は、なかなか言えない言葉であろう。「いくら謝っても謝り切れませんが・・・、どうか許して下さい」というのが普通の感覚であり、「これだけの事をしておいて、謝ってすむと思うのか」が、謝られる側の感情である。「何度謝ったらすむのか」と言った途端に、これまでの謝罪は無に帰し、さらに謝罪しなければならない回数を増やすことになる。残念ながら、このような簡単な人情の機微さえわからなくなっている現在の日本を限りなく危惧する。
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孫崎享チャンネル
(ID:34224597)
日本のメディアの取り上げ方は、全体の歴史を無視して、都合のよい断片だけを伝ており、それによって間違った世論を形成している。かつて暴支膺懲などが戦前の紙面をにぎわしたが、歴史をマクロに見れば、噴飯ものである。そして今また、そのような雰囲気が作られつつある。尖閣の問題がこれほど大きくなった直接の原因は、石原発言とその後の国有化であったことを、すでに国民は忘れて、すべてを中国側のせいにしている。
この独りよがりの体質は、今回の安保法制にも引き継がれている。安保法制がわかりにくいのは、その法案の多さや説明内容に矛盾や曖昧な部分があるからだけではない。その根底にある安倍氏やその取り巻き連の心の中にある思い、言葉に出して言わない思いが法案を一層わかりにくくしている。
そもそも、安倍氏は戦後レジュームからの脱却を主張していたはずである。戦後レジュームは、敗戦の結果できたものである。そしてこれを否定することは、敗戦を否定し敗戦前の日本が良かったということにつながっていく。「日本を取り戻す」と彼が言うのは、この意味であろう。しかし、日本が敗戦したのは否定しようのない事実である。ポツダム宣言を受け入れて降伏したことは、いくら頑迷な歴史修正主義者でも否定できることではない。さすがに彼もそれを認めている。
ではどうするか。ここで、話がややこしくなっていく。私たちが考えなければならないことは、同じ言葉を使っても、その意味が人によって異なるということである。彼は、敗戦した事実は認めても、敗戦に至った国策を誤りと認めず、先の戦争を侵略戦争と認めていないという事実がある。一方で、彼は反省しているという。しかし彼の言う反省には、国策の誤りも侵略のお詫びも当然含まれていない。事実、彼は国会で何度問われても、その言葉を決して口に出して言わない。かたくなに拒否している。
私たちはこの事実から、反省は彼にとって、単に「負けたことを反省する」ことにほかならないことを読み取ることができる。国策を誤り無謀な戦争を引き起こしたこと、侵略をして多くの犠牲者を国内外に生み出したことへの認識と謝罪は彼の反省の中身にはない。彼にとって先の戦争に対する反省は、一般に言われているのと全く意味が違うのだ。
するとどうなるか。「次はうまくやって勝つ。そのためには、何を反省しているかは語らずに、単に反省という言葉で目くらまししておいて、次の機会を狙う。もちろん、今のところアメリカの言いなりになるのもやむを得ない。」と考えているとするなら、それがいいか悪いかは別にして、彼の言動には整合性がある。
この点で、「安倍氏は日米同盟、軍事協力を理由に、日本の軍事力強化を目指していると思う」と述べた小沢氏の話は、かなりの程度正鵠を得ていると思う。
安倍氏と彼の取り巻き、多くの自民党議員がそれを目指すのは彼らの勝手である。問題は、そのことを隠していることである。議員によっては、意識的にではなく、無意識の心の底にそのような思いがあり、本人は自覚的でないかもしれない。しかし、彼らの多くは彼らの憎む戦後レジームと戦後憲法から多くのメリットを享受している。自らが否定している基盤によって、自らが成り立っていること、そしてそれによるメリットを手放さず、むしろ貪欲にそれを求めていること。ここに矛盾がある。
はたして、人間はこのような矛盾に耐えられるであろうか。平和といいながら平和の意味が違うこと、安全といいながら安全の意味が違うこと、つまり正しく言葉を使わずに歪曲して使っていることに、矛盾を生きる彼らの病状が露出している。国会議員としての彼らの存在自体が、矛盾の上に成り立っている。
さて、さらに問題なのは、このような政治に対して、日本国民の本当の思いはどこにあるかである。先の戦争が悲惨な戦争であったことは知っている。無謀な戦争であったことは知っている。広島長崎の犠牲者のことも忘れてはいない。もちろん、それを上回る圧倒的なアジアの犠牲者のことも知っている。歴史のどこを見ても、日本に言い訳の余地はないことも感じている。
そしてその認識は正しい。個々の些末な事例を持ち出しても、歴史の大局は微動だにしないことは、少し想像力があればすぐにわかることである。たとえば、ろくに食料も持たせずに、二百数十万人の兵隊を15年以上の長きにわたって他国に投入すれば、そこで何が起こるかを想像してみればよい。先の戦争を侵略でなかったと否定することは、一般的には不可能である。
しかし日本人にはそれは可能かもしれない。なぜなら、福島原発事故のことでさえ、数年たてば何もなかったかのように忘れることが出来る国民だからである。自国で起きた現在進行中の事故にも関わらず無関心で、誰も罪に問われない。それどころか原発再稼働を推進し、輸出さえしようとしていることに多くの国民は無関心である。70年にわたる沖縄駐留米軍のことにも、基本的に無関心である。まして、70年以上前の戦争のことなんか関係ないのである。
「何度謝ったらすむのか」。戦争の謝罪について、最近よく聞く言葉である。人を殺して、その遺族に対して「何度謝ったらすむのか」は、なかなか言えない言葉であろう。「いくら謝っても謝り切れませんが・・・、どうか許して下さい」というのが普通の感覚であり、「これだけの事をしておいて、謝ってすむと思うのか」が、謝られる側の感情である。「何度謝ったらすむのか」と言った途端に、これまでの謝罪は無に帰し、さらに謝罪しなければならない回数を増やすことになる。残念ながら、このような簡単な人情の機微さえわからなくなっている現在の日本を限りなく危惧する。