「こういう日本にしたのは小林よしのりでしょう。なぜ、今になって真逆のことを言うの?」 について、思うところがありますので投稿いたします。私は、よしりん先生が描いた戦争の重みを全然読み取れていない人たちが、こういうことを言っているのではないか、と感じます。 私が戦争論を読んだのは大学生のころでした。私は、サピオで新ゴー宣の連載が始まってからの読者で、戦争論が出る前から既にゴー宣に親しんでいましたが、それでも戦争論の衝撃は強烈でした。日本人ならば大東亜戦争肯定という立場にしっかり立たなければならない!と実感しました。 私は頭がよくないですが、右脳でしっかり戦争論を読み取り、心で感じ取りましたよ!祖父達のために戦う決意をした、というよしりん先生の覚悟に感銘を受けました。私の祖父はフィリピンで戦死しましたが、戦争論を読んで初めて、祖父への感謝と尊敬の念を強く感じました。戦争論は、祖父と私をつなげてくれた本です。歴史を学ぶというのはこういうことか!と思い、本当に感動しました。 戦争論には、いたずらに好戦的になるということを肯定するようなことは、ひとつも書かれていなかったはずです。むしろその逆で、戦争の重みや、戦争する理由(大義)が何であるかを教えてくれたと思います。それを正しく学びとれば、新戦争論でよしりん先生が真逆のことを言っている、などと言わないでしょう。 「戦争論=好戦的」、「新戦争論=反戦的」と捉えてしまう人たちは、よしりん先生が描き、伝えてくれた戦争の重みというものを、戦争論で読み取れなかったのではないでしょうか? 私は新戦争論で描かれていた、ひめゆり学徒の話を読んだ後、思わず5歳の娘を抱き寄せ、涙しました。命の重さを感じると同時に、その重い命をかけて戦うだけの価値のある、真の大義のある戦争だけしかしてはいけない、ということを感じました。 しかし、大義があってもなくても、どんな戦争であっても、命を奪い合うことに変わりはありません。それがどういうことなのが想像できない愚かな人たちが、勢いやムードだけで好戦的になり、戦争の重みを感じないまま、当事者意識がないまま、勇ましいことを言っているのだと思います。 そして反戦的な人は、大義がある戦争というものがあるという現実に目を向けられないのだと思います。 戦争論でも、新戦争論でも、私は戦争の重みを感じずにはいられません。心身ともに弱い自分は、大東亜戦争を戦った先祖たちの足元にも及ばないと恥じ入るばかりです。そしてこの日常を感謝するばかりです。ただただ謙虚にさせられるばかりです。 しかし、もし日本が自衛をしなければならない状況になったら、臆病でちんけな自分をなんとか奮い立たせなければいけない、という覚悟を、がんばってがんばって、ようやくできるかどうか、という感じです。 私は当時も今も、よしりん先生の作品に心揺さぶられ続けています。メッセージが一貫しているからこそ、私は何年もゴー宣を読み続け、ゴー宣に感動することができるのだと思います。私は、知識は乏しくても、自分の感性はちょっとは信じられるかな、と自負しております。ゴー宣の一貫性を感じられない人は、自分の目にチリや梁がありながら、一生懸命他人の目にあるチリや梁を取り除こうとしている愚かな人に映ります。 新戦争論を読んで、人間とは思った以上に愚かで、歴史に学ばない存在だと感じました。今の日本では、そのような人たちの声があまりにも騒がしすぎると感じます。あげくは、一国の首相までもがそのような騒がしい声を露骨に上げ始めています。でも、新戦争論を正しく読み、正しく感じている多くの人たちがいるということも絶対に真実です。 結論!:よしりん先生の作品は歴史に残る作品です。だからこそ、近視眼的な人たちは正しく理解できません。でもそういう人たちは歴史の中で、後世の人たちに「アホだったなぁ」と評価されるでしょう。それに対し、よしりん先生の作品は歴史に残ります!戦争論と新戦争論は、我が子に、そして孫にも読み継がれていくことでしょう!
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:22666930)
「こういう日本にしたのは小林よしのりでしょう。なぜ、今になって真逆のことを言うの?」
について、思うところがありますので投稿いたします。私は、よしりん先生が描いた戦争の重みを全然読み取れていない人たちが、こういうことを言っているのではないか、と感じます。
私が戦争論を読んだのは大学生のころでした。私は、サピオで新ゴー宣の連載が始まってからの読者で、戦争論が出る前から既にゴー宣に親しんでいましたが、それでも戦争論の衝撃は強烈でした。日本人ならば大東亜戦争肯定という立場にしっかり立たなければならない!と実感しました。
私は頭がよくないですが、右脳でしっかり戦争論を読み取り、心で感じ取りましたよ!祖父達のために戦う決意をした、というよしりん先生の覚悟に感銘を受けました。私の祖父はフィリピンで戦死しましたが、戦争論を読んで初めて、祖父への感謝と尊敬の念を強く感じました。戦争論は、祖父と私をつなげてくれた本です。歴史を学ぶというのはこういうことか!と思い、本当に感動しました。
戦争論には、いたずらに好戦的になるということを肯定するようなことは、ひとつも書かれていなかったはずです。むしろその逆で、戦争の重みや、戦争する理由(大義)が何であるかを教えてくれたと思います。それを正しく学びとれば、新戦争論でよしりん先生が真逆のことを言っている、などと言わないでしょう。
「戦争論=好戦的」、「新戦争論=反戦的」と捉えてしまう人たちは、よしりん先生が描き、伝えてくれた戦争の重みというものを、戦争論で読み取れなかったのではないでしょうか?
私は新戦争論で描かれていた、ひめゆり学徒の話を読んだ後、思わず5歳の娘を抱き寄せ、涙しました。命の重さを感じると同時に、その重い命をかけて戦うだけの価値のある、真の大義のある戦争だけしかしてはいけない、ということを感じました。
しかし、大義があってもなくても、どんな戦争であっても、命を奪い合うことに変わりはありません。それがどういうことなのが想像できない愚かな人たちが、勢いやムードだけで好戦的になり、戦争の重みを感じないまま、当事者意識がないまま、勇ましいことを言っているのだと思います。
そして反戦的な人は、大義がある戦争というものがあるという現実に目を向けられないのだと思います。
戦争論でも、新戦争論でも、私は戦争の重みを感じずにはいられません。心身ともに弱い自分は、大東亜戦争を戦った先祖たちの足元にも及ばないと恥じ入るばかりです。そしてこの日常を感謝するばかりです。ただただ謙虚にさせられるばかりです。
しかし、もし日本が自衛をしなければならない状況になったら、臆病でちんけな自分をなんとか奮い立たせなければいけない、という覚悟を、がんばってがんばって、ようやくできるかどうか、という感じです。
私は当時も今も、よしりん先生の作品に心揺さぶられ続けています。メッセージが一貫しているからこそ、私は何年もゴー宣を読み続け、ゴー宣に感動することができるのだと思います。私は、知識は乏しくても、自分の感性はちょっとは信じられるかな、と自負しております。ゴー宣の一貫性を感じられない人は、自分の目にチリや梁がありながら、一生懸命他人の目にあるチリや梁を取り除こうとしている愚かな人に映ります。
新戦争論を読んで、人間とは思った以上に愚かで、歴史に学ばない存在だと感じました。今の日本では、そのような人たちの声があまりにも騒がしすぎると感じます。あげくは、一国の首相までもがそのような騒がしい声を露骨に上げ始めています。でも、新戦争論を正しく読み、正しく感じている多くの人たちがいるということも絶対に真実です。
結論!:よしりん先生の作品は歴史に残る作品です。だからこそ、近視眼的な人たちは正しく理解できません。でもそういう人たちは歴史の中で、後世の人たちに「アホだったなぁ」と評価されるでしょう。それに対し、よしりん先生の作品は歴史に残ります!戦争論と新戦争論は、我が子に、そして孫にも読み継がれていくことでしょう!