冬至 のコメント

 ジェンダー論争が盛んではない日本において、
なぜかフェミニズムに分類されやすいレズビアンやホモセクシャルの方々からすれば、
ただ男である女であるを基準として語られている女性学や男性学の現状を鑑みて、
その思想を名乗るというこで、自分をフェミニストだと位置づけられません。

 そして、それが論理的てきではないと指摘されたいようですが、
それではまるですべての鴉は黒い、ゆえに黒い鳥のすべてが鴉であると結論づけ
るそれまさにそれではないのでしょうか。ざんねんながら、思想を二極化すること
答えを容易く出しやすい利点とともに、そこにある多様性を見落とされています。
 
 また、私がホモセクシャルをフェミニズムの一部と
捉えていると指摘されますが、ホモセクシャル・レズビアン
の同性愛について語られやすい、性の解放として論議されているコミュニティの
ひとつが、フェミニズムの場であることは知っていますか?
(ただ、そのフェミニズムのだけでなく、アセクシャルという考えは日本で多くの
人が知ることではない現状ですが)
 また、ホモセクシャルをフェミニズムであると断言するようにとれるように
書いたのならばともかくとして、なぜかと疑問詞を前において強調していることが
抜けています。

 「男性の権利は男性の問題~」と書いた覚えもありません。
 「男性の権利もまた皆の問題、ですが、それに対して直接の働きを望むするのなら
ば、その当時者が主体的に動く案件である」ことを指したいのです。
 その論議のいっかんとしてのフェミニズム批判であるといいます、まず向けるべき
矛先が違います。
 何度もホームレスの例をあげて強調されていますが、それを見過ごしている
人々は女性だけではないのです、男性が弱者になったときに救済の機会がないこと
理解をしながらも、声をあげない男性たちの存在を見落とされていませんか。
また、男性が声をあげにくいとされている現実の根底にある、男性は強いから保護
されるべきだという社会の暗黙こそに矛先を向けるべきなのではないのでしょうか。
 第一に声をあげずに救いだけを望むのは無理があります。歴史的に見て、
人権運動のはじまりは社会に対して不当な扱いを受けていると自覚した人々が、
その目的目的に沿って運動をしたからこそ、声を上げてこそ打破される現実に
対し、声をあげずに助けを求める姿勢をとりつづけることこそが、
わがままなのではないのでしょうか。

 また、フェミニズと社会の情勢というものは不分化です。
 否、人が社会的な生き物であるのならば、その社会に起きた歴史的できごとが
あらゆる思想に影響をおよぼさないはずがないのです。
 第一に、米国や英国でのフェミニズムの起こりは、第一次世界大戦において
女性が欠員の補充として社会に駆り出されたことにくわえて、文明の発達があります。
それによって、女性の負担が減ったことで本格的に女性が外の世界へでやすく
なり、その外の世界においても機械化による女性の労働の従事が
しやすい環境がそろっていたことも女性の社会進出に拍車をかけたことは
御存知でしょう。日本においても、高度経済成長期と女性の社会進出は
密接に関わっています。その現状において、かりにフェミニズムとしてでは
なくとも、女性側が社会の構成員として声をあげないと本気でお考えでしょうか。

 武力による闘争は男性社会的なものであるという考え、つまりは既存の
男性社会的考えを肯定することとなる。を文意のままに取り過ぎています。
個人として闘争本能は男性のものであるとするのは自由ですが、これが
フェミニストにとっては「既存の男性社会(肉体的特性を殊に重要しされ、
女性性を否定される)」から「女性としての権利」つまりは「女性が女性
として在る」こと、それを「男並みになることで証明する」では運動の原点
からしてを見直されざるをえないのです。このことについてですが、私は
女性の闘争本能の否定は毛頭するつもりはありませんが、「男並みになる」
ことがけっきょくの帰結となるのか、それとも闘争本能を認めたうえでの
女性の在り方の議論は慎重になされて不思議ではないですよね。
また、この時彼女たちが指す社会とは、彼女たちの運動の起点となった
「男性型社会」ではなく、そのままに「男性社会」なのですから、その事実を
歪める表現はできかねます。また、それが男性にとって有利となるについて
ですが、それを一度認めたことで「けっきょくは男並みになることが
社会の構成員である」ことの証明として、男性に有利になると言いたいのです。
また、このコミュンティで私は性別を明示していないはずなのですが、
なにをもって私を女性と判断したのでしょうか?
 これは話がそれますが、PCの世界において、文脈や一人称・また
プロフィールですら相手を判断するに危ういですよ。

 最後に、それまで男が戦場で血を流したのは変わらないという
事実を指摘されるならば、戦中銃後でそれを支えていた女性がまるで
安全な中にいたと考えていることになりますね。
 どの時代の戦争史を見たとしても、戦場で血を流したのはたしかに
男性ですが、ひとたび戦火となれば老若男女関係なく命は危険にさらされるものです。
まして第二次世界大戦など、ことに日本では銃後とされていた女性や子供の
多くが空襲や餓えに倒れたことを見過ごされてはいないでしょうか。
 少し話をもどしますと、先に文明の発達と女性の戦場への進出もまた切り離せません。
銃の軽量化や扱いやすや、身体的にかかる負担(長期の行軍を戦車や車で補える
ようになった)が武器の発達によって可能となったからです(くわえて、自衛隊の女性自衛官の前線
配置には女性の身体的の発達もある(高身長化など)のですがね)

 あと、高学歴の女性ほど社会の進出を望んでいないとされますが、
その統計の結果に驚くべきことはありません。最近の話ではないのですよ、
高学歴の女性ほど結婚を望むのは。
 まず第一に、高学歴とされている女性たちの家庭的背景が一般的なそれよりも
       裕福であることが多いこと。
   第二に、それらの女性にとって、身近な女性としての在り方を考える材料となろう
       母親が、働かなくても生活がなりたつ世界で育ったこと。
   第三に、彼女たちは高学歴であるがゆえに、高収入の男性と合う機会であろう男性と
       合うことが多く、その男性も自分の収入でやっていることから、女性が
       家庭に入ることを望みやすいこと。
   男性もしくは女性のなかには、これはズルイという方も居られるでしょうが、
   この場合本人たちの同意の上でなされているのですから、その議論は避けましょう。
   
 また、上流階級で育った女性の周りでは周囲からして社会進出を望まないことが多いのです。
それらの階級の場合では、女性が働かなくても成り立つがゆえに内助の功を期待されやすい状況
であること、反対に中流階級がくずれつつある現代において女性が身の保障をされにくい
現状から・男性が自分の存在の優位性を求めやすいことから、女性の社会進出が
しにくい日本の現状もあるのです。
 ですが、最近は二極化と叫ばれるように高学歴の女性で
も社会に進出したい・ポストを得たいという意志がでつつあること、
それ以外の女性もまた外にでなければ生活がなりたたないという理由から
社会に進出したいという動きがあることをどのようにお考えでしょうか? 
 また、さきに上げられた数字ですが、数字とはその背景を鑑みず数字を追うだけでは
危険なものです。上記したような背景があるのでは、安直に高学歴の女性は社会に
進出したがっていない、と名言できるものではないですよね。
 
 それらの背景にくわえて、世界の各国と比較しても、日本における
女性の社会進出にともない必要となる福祉は昨今指摘されています。
 文明が進んだ社会において、多くの場合は女性が地位の獲得にむかって
外をめざすのに、彼女たちはどうしてそれをしないのか。
それを考察せずして、女性側にだけ責があるとはいえないのでは?

 またクロワッサン論争についてですが、
これはまず筆者殿が女性の晩婚の被害者である、その元凶は
フェミニストだと指摘したことについてです。
 当時のバブル前後の社会進出した女性の立場をまず考えてください、
『クロワッサン』の理念は、なにがしかの形で誰かに隷属する立場にいたく
ないとした女性が新たな生きかたとして、隷属におわる結婚の制度
へのアンチテーゼです。この雑誌を買う女性の多くは、その理念に魅かれる
ものがあったからこそ手にしたとするならば、やはりその当時女性が
どのような立場であったのかを考えてはいかがでしょうか。
また、『クロワッサン』が方針を転換した原因は、
バブルとい社会的な余裕のなさに起きた現実です。
 再度書きますが社会に余裕がなくなったときに、まっさきに切られやすい
立場であったの女性でした。
なぜ多くが女性であったのか、なぜ女性が責を追う立場を与えられなかった
のかその事実を、簡単に男も女も同じで個々の積だとするには無理があります。
 現代の状況をみて、このことを女性だけの問題にできる現実でしょうか?

 最後に、皆はクローン人間にならない限り、お互いの違いについて争い続ける~
状況を〝恐怖〟としていますが、クローン人間にでもならない限り差異はありつづける
というのに、それを無視してまわる社会、その矛盾としてどちらか片方がもう片方を
虐げる立場になるか、軋轢を無視し歯車をまわさせ決定的な破滅に向かうのでは。
これを極論だととるのならば、論争自体を「いがみあい」と表現しその結果
「恐怖」が訪れるもまた極論となりませんか。再度書きますが、論争自体が
起きない社会や共同体というもの自体が、社会としての在り方として
健全とはほど遠い姿ではないのでしょうか。
  
 私個人が考えていることは、現状においてそれを一番に主張している
女性として、女性の在り方の再考としてフェミニズムは見直される
事がらではないのでしょうか。彼女たちの主張するすべてを飲み込め、
ではなく(よくフェミニストの定義として女性優勢論者であると
考えるかたが根強いようですが、フェミニストにも派党があります。
ここ最近のフェミニズムは主論は男女が歩み寄って生きていく、
それを可能にするために必要とされる女性の視線についての見直しが
主眼に置かれています)

No.80 130ヶ月前

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兵頭新児の女災対策的随想

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