na85 のコメント

 AKB48に嵌ったよしりん師範にロリコンと悪罵を投げつけたやつらは自分のゲスな心象を基準にしているはずです。そういう邪推をするやつらには「思い邪なる者たちに災いあれ」という言葉を贈りたいですね。
 さて、師範はAKBGの少女たちを娘か孫のように思ってしまうそうですが、その中で唯一女として見られると公言されているのが大島優子です。『AKB48論』では13章のエピソードで「惚れそうになった」と書いています。このあたりからよしりん師範が惚れる女性像を少し考えてみたいと思います。
 バラエティ―・アウトデラックスでAKBの少女たちのことは娘のように思っていると発言し、でもやりたい子はいるでしょ?との問いにノリで大島優子ぐらいならと答え、ネットで避難轟々となった後で優子に遭遇した時のエピソードです。会わないように隠れていたよしりんを優子が見つけて「ああああーー!小林よしのりだーー!!」とわざと少し大げさなテンション(その方が相手の気が楽になる)で話しかけますが、会いたくないとジェスチャーで追いやられてしまいます。優子は一度はそのまま通り過ぎて階下へ降りようとしますが、よしりんの方に向き直ってそれまでのテンションと打って変わって真面目な顔付きになり、やや瞳を潤ませながら「でも私、嬉しかったんですよ」「だって私だけがAKBの中で女として見られてるってことですから」と言いました。この件で傷ついているのはよしりんだ、それに私の立場にも配慮してくれてるから会いたくないんだと思い至ったためかけた言葉でしょう。相手を救うには今どういう言葉をかければ良いか一瞬にして分かる機転、瞬発力、頭の良さ、気遣いも去ることながら、直前のハイテンションからのギャップ、表情と雰囲気の変化は魔性と言う他ないと思います。
 ギャップというキーワードが出ました。ここでもう一つ傍証を挙げます。よしりん師範の分身・遅咲散太郎が活躍する『遅咲きじじい』です。第2話から登場する30代の女性文筆家三木谷優(ミキータ・爆乳)は散太郎の加齢臭に惹かれるという設定ですが、散太郎には現役時代に仕事の現場でしっかり戦ってきた経験が紳士的な雰囲気や自信となって滲み出ており、それも込みで以降の数々のエピソードを通して恋愛感情を持つに至ったはずです。後半では年齢と妻の幽霊への気兼ねから拒む散太郎にミキータが恋愛感情を前面に出していき、散太郎が動けなくなったときは介護してあげるとまで言います。そしてついに二人だけの温泉旅行にこぎつけたときの個室露天風呂での会話です。それまで誘惑モード全開で散太郎の愛を勝ち取るべく迫っていたミキータがふと真面目な表情になり、おそらく自分の文章の仕事で触れた世界大の問題を語りはじめます。アフリカのある紛争地域ではレイプ専門の軍隊がいて少女からお婆さんまでレイプされる、日本にいる幸せな私たちは今この上に何を望むのか、それを考えれば私がチリ様から必要ないと言われても我慢しなきゃいけないと。私的な恋愛感情を前面に出していたミキータが世界大の公を考えれば諦めることができると言うわけです。一瞬で私から公へのスイッチが入ったのです。ココに至って散太郎は「今この女に惚れたかもしれん」と。やはりここでもキーワードはギャップです。
 よしりん師範ならずとも日本の多くの男性は、おふざけ←→真剣、ハイテンション←→しおらしい、私←→公、といったベクトルが真逆のスイッチのオンオフを、計算ではなく相手を思いやった上で自然にできる女性に惚れてしまう可能性が高いのではないでしょうか。男女ともギャップにモテ効果ありとは以前から言われていましたが、これは本心を偽らず(真)、良心から発したもので(善)、計算づくでなく自然に(美)というのが大事です。詐欺師の計算づくのギャップに騙されると後で幻滅し悲劇的な結末を迎えます。さて、よしりん師範が『風立ちぬ』に今ひとつ乗れなかったのは、菜穂子がハッキリとしたスイッチの切り替えを示し、自分の恋愛感情に正直(真)でそれを計算づくでなく自然に表せた(美)としても、相手を思いやる優しさ・気遣い(感染性の不治の病だから身を引く、あるいは身体を重ねることは拒否)に今ひとつ欠けたていからではないかと愚考してみました。ちなみに相手の激しい感情の起伏に疲れてしまうタイプの男女もいるわけですが、そういう人は菜穂子や大島優子やよしりん師範のようなスイッチの切り替えの激しい人ではなく変化の緩やかなほわんとした異性に惹かれるはずです。
 自然なギャップは対人スキルのあるなしに関わってきますが、これは幼い頃から良き共同体に属してそこの大人たちの良い身の処し方(スイッチのオンオフを含む)に触れることで自然に身につき、また以後参加した様々な共同体での自身の経験を通して磨かれる、つまり日本のエートスや伝統をその身に宿していることが大事かと思います。本心のまま、良心のままの行動は陽明学的・江戸しぐさ的行き方で、それは幕末明治に来日した欧米人が絶賛した前近代の美しい日本人の在り方です。
 そのような来日外国人の書いた文章から前近代の日本人像を炙りだした名著『逝きし世の面影』(渡辺京二)には、人前で平気で肌を晒して行水する女性や男女混浴にも平気な女性のことが驚きをもって描かれ、蛇に唆されて恥に目覚める前のイブなのか?と訝っています。子供の目に付くところにも春画・猥本が溢れていることを考え合わせて日本人の混浴は性的放縦ではないかと見た外国人も登場しますが、彼らが好奇の目あるいは好色な目で凝視すると日本女性たちは身を隠して恥じらうわけです。文章を紹介されている外国人の中で日本人理解が進んだ一人は「我々がそのような目で見なければ何も問題はない」「思い邪なるものに災いあれだ」としています。日本人はTPOによってスイッチを切り替えることができるため、肌を晒す女性を見ても混浴しても平気だったのです。すっかり欧米化された現代日本人にはスイッチの切り替えがどこまでできるか怪しいかもしれませんが。ずいぶん話が逸れてきてしまいました。

 人は自分を基準にして邪推する na85

No.156 135ヶ月前

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