こいら のコメント

よしりん先生のブログで「ライジングの読者が『風立ちぬ』に対して賛成の意見が多く、それがファシズムみたいになるのには違和感がある」とおっしゃっていましたが、私は『風立ちぬ』をまだ見てないしこれから先も見る機会もないでしょう。
以前、宮崎駿が「CUT」という雑誌で『風の谷のナウシカ』についてインタビューされていたのを読んだことがありますが、その中で「今、日本に所与としてある歴史の流れに対してのカウンターとして自分の作品がある」みたいなことを言っていた記憶があるのです(うろ覚えかもしれませんがそんな内容だった記憶があります)。
「CUT」という雑誌を発行しているロッキング・オン社という出版社は音楽関係の雑誌も扱っていますが、左翼というか、ポストモダン的な感じの論調で雑誌を作っていて(そこが作ってる「SIGHT」という雑誌がまさに左翼の雑誌なのですが)、おそらくその編集者に合わせた感じの論調の発言みたいな感じだったかもしれません。
それから、私は以前、当時付き合っていた彼女と宮崎駿の「魔女の宅急便」という映画を見に行ったことがあります。彼女は東京出身で、やはり少し今思えば左寄りの女性だったのかな、と思うのですが、子供向けだったということもあったのですが私は宮崎駿の世界観に全くシンクロできなかった記憶があったのです。
彼の表現の源泉に「都市化が進んで失われた『自然なるもの』や『土着的なもの』への再発見ないし回帰」みたいなテーマがあると思うのですが、私が住んでいるところは田舎だったので、そういう「自然」とか「土着」みたいなものはわざわざ「発見」や「回帰」するものではなくって「生活とともに当たり前にあるもの」であったから感情移入できなかったのかもしれません(それが原因かは分からなかったけれども彼女との交際は続かなかったです)。おそらく牛頸の田舎で育ったよしりん先生も同じような違和感を感じているのでは、と推察できます。
どうも、『風立ちぬ』をはじめとする宮崎駿の中に「大東亜戦争=近代、平和主義=自然・土着」みたいな「間違った」対立構造を生んでる図式があるのではないのでしょうか。
大東亜戦争は、単なる軍事による近代同士の戦いではなく、愛郷心や共同体から培われた日本なるものと、近代的で合理的な西欧の個人主義の衝突だと思うのです。日本の近代化が進んだ要因として、共同体意識が強く、私よりも公を大事にする人間が多かったという一面もあるのです。「風立ちぬ」が左翼の知識人の話題にのぼることが多いのは、「零戦を作った共同体を担保とする日本の近代化」を批評するポストモダン的な視点で描かれているのではないのか、そしてその視点に頷く左翼が多いのではないのかな?と思ってしまうのです。
日本が先進諸国と違って「近代化イコール合理化ではない」理由は天皇陛下を中心にした共同体組織が戦後も存在したからであり、それはよしりん先生の『戦争論』でも描かれたテーマだったと思うのです。この国で近代を批評しそれを乗り越えるためには、たとえ土着や自然に回帰するにせよ、それが創作の世界にせよ「天皇陛下を中心にした日本という共同体」を意識しなければならないのですが、どうも宮崎駿は「何か空とか自然とか土着みたいなものに『逃避』すれば『日本みたいなうざったい共同体国家』から逃れられる」みたいな「倒錯した日本の近代批判」みたいなものにしかなってないし、それは単なる逃避という退行現象に過ぎないと思います。彼が主人公に少女や幼女を選んできたのも、それと無関係ではない気がします。
昨今の映画なんかも、特に日本の若手の監督なんかがそうですが「日常や共同体からのしがらみを抜けた、私とあなただけの清らかで美しい関係は永遠なんだ」みたいな作品が多いような気がします。そんな安っぽい映画の主題歌に日本のロックが使われてることが、いちミュージシャンとして情けない気もします。確かに共同体はうざったいのも事実で、逃避したい現代人が多いからそんな映画が幅を利かせるし、『風立ちぬ』がウケてるのも一面の真実ではあるのですが。子供や思春期だったら共同体からの逃避もある程度は許されるのですが、大人なら共同体と自己の間の折り合いを上手くつけて暮らしているのが普通じゃないのでしょうか?。
10月13日の道場には行けませんが(路上ライブの日なので)、おそらくそのような話題も上がるのかもしれません。
まだ手塚治虫の方が、宮崎駿より日本の共同体意識と西欧の合理主義との衝突に対して自覚的な描き手だった気がします。
長文失礼しました。

No.59 128ヶ月前

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