諫議大夫 のコメント

今日(9月27日)の朝日新聞夕刊に、
沢木耕太郎「銀の街から」連載で、
宮崎駿監督の「風立ちぬ」が取り上げられていた。

興味深いので読んでみることにした。

沢木は、冒頭で、「風立ちぬ」を宮崎駿の作品ではない、
と決めつけている。その理由を
「(中略)問題は、主人公が語るべき『物語の階段』が
存在していないところにあったと思われる」
と断じ、過去の作品では、階段を昇り降り
する物語が存在したのに、この作品にはそれがないと
言い切るのだ。
沢木は、
「もし、この「風立ちぬ」を見て、子供たちが退屈するとしたら、
それは「大人のための作品」だったからではない。」
と、勝手に「風立ちぬ」を「子供が退屈する作品」にでっち上げ、
過去作品をジェットコースターに乗った時の快感になぞらえて
「宮崎駿の作品にはすべてにその快感があった。だからこそ、
子供も大人も、繰り返し繰り返し見て飽きなかったのだ。
「風立ちぬ」に、いつもの「物語の階段」があったなら、決して
子供たちも退屈しなかったはずだ。」
と勝手に妄想している。

そして最後に、
「宮崎駿がこれを最後の映画にしていいとは思えない。
私は「風立ちぬ」を試写室で見たとき、これは宮崎駿にもう
一本撮らせるために存在する映画だと思った。なぜなら、
これは新しいものを生み出した作品ではなく、かつてあったものが
失われた映画だったからだ。
もっともそんなことを言うと、まだお会いしたことのない宮崎さんに、
「もう一本?俺を殺す気か!」と叱られそうな気もするけれど。」
と締め括っている。

要するに沢木は、
物語の階段があった過去の宮崎作品は快感だったけど、
物語の階段のない今の「宮崎作品」は見ていて退屈だ、
と言っているわけだ。
しかも子供をダシにして。

しかし私は沢木の言葉に違和感を覚える。
第一に、「物語の階段」があるから、宮崎アニメがヒットしたのだろうか?
それなら「ドラゴンボール」も「ワンピース」も「物語の階段」が
あるので、ヒットしている。
だが、宮崎アニメは、お年寄りから子供まで、あらゆる世代に受け入れら
れてるではないか。子供連れの家族からカップル、熟年世代の夫婦まで
宮崎映画を観に来ている。
「物語の階段」とは、言い換えれば、「坂の上の雲」だろう。
沢木は、子供たちに、坂の上の雲を目指すような作品を見なさい、
坂の下を耕す作品なんて見てて退屈だよ、と唆すのだ。
第二に、沢木は一度も宮崎「アニメ」という言葉を使わず、
宮崎「映画」という言葉を使っている。
だから、アニメがどうやって作られているか沢木はそういったことに
思いを致せず、簡単に「もう一本撮ってくれ」と消費者のような感覚で
宮崎に迫り、アニメスタッフの苦労と努力を完全に無視している。
しかし宮崎駿は自分の正規社員であるアニメスタッフを喜々として地獄に
追い込むために、「風立ちぬ」を作ったのだろうか?
宮崎はおそらく、中間層が崩落し、弱肉強食の世界に陥った現代日本を
子供たち若者たちの目から読み取ったのだと思われる。
宮崎アニメの最大の享受者は子供たち、若者たちであり、
宮崎自身、子供たちを慈しみ、子供の表情仕草に敏感である。
その彼ら彼女らから、
「坂の上の雲を追う物語」が通用しなくなったことを感じ取った
ただそれだけでなく、
「夢は坂の下の「平坦な」場所にある」ことを子供たちに伝える有意義を
感じたからこそ、あのアニメを作ろうと決意したのではなかろうか。

沢木は、宮崎駿が子供たちを洗脳して、子供たちにウケる作品を
作れば、子供たちが、坂の上の雲を目指して閉塞感を打破できるのに
と考えている。それはあまりにも浅いと思う。子供たちをなめている。

子供たちと真摯に向き合う宮崎駿は、たとえアニメの苦労を知らない大人
から「平坦だ」「退屈だ」といわれても、子供たちを裏切ることなしに、
地道にスタッフに指示を出し「風立ちぬ」を完成させた。

他者から「退屈だ」と言われてしまう作品をあえて作ることはアニメスタッフに
とって一番過酷かもしれない。スタッフは連日ストイックな生活を送ってたかも
しれない。しかしストイックに耐えられたからこそ、宮崎は安心して
引退宣言を発したのではないかと思う。

坂の下の平坦な場所にある夢に向かって”生きねば”  諫議大夫

No.138 135ヶ月前

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