na85 のコメント

 magomeさんとdaiさんの対話が面白いので、私も江戸文化の側面だけ参入します。
 江戸期の日本は長崎の出島に5~6人のオランダ人が2年ほどずつ駐在していました。唯一開かれていた出島での交易品は、日本からは陶磁器や漆器などの工芸品と当時は豊富に採れた銅であり、オランダからもガラス細工などの工芸品が多かったようです。これは互いに余剰物を交換する程度の交易で、情報交換が主な目的でした。このとき浮世絵なども一緒に欧州に渡り、これが欧州の画家たちに影響を与えて印象画が隆盛するきっかけとなりました。またオランダ人が交代して来るときには欧州での出来事の報告書である『風説書』と一緒に、個人で欧州の文物を大量に持ってきて売り捌くという幕府黙認の密輸もしていました。出島に来ていたオランダ人は自国で役に立たないアホばかりだったようですが、医者だけは一流の人物が来ていました。その中でもっとも有名なのは、有能だったため出島の外に出ることを許されて日本人に蘭学を教えたドイツ人医師シーボルトですが、他にドイツ人のケンペルやスゥエーデン人のツュンベリーも有名です。ケンペルは『鎖国論』で江戸期日本の鎖国を絶賛しています。一国で全てを自給できるから外国との通商が必要なく、だから戦争が起こらない、そこが素晴らしいと言っています。ツュンベリーは幕藩体制の素晴らしさを故国の王に進言しました。
 鎖国していた江戸期日本にも景気動向と文化の盛衰がありました。ほとんどグローバル経済に左右されないため景気は国内政治で決まりました。江戸文化が隆盛したのは元禄時代と田沼時代、文化文政時代でいずれも好景気の時期でした。貨幣の金に銀を混ぜて流通量を増やし、規制を少なくして商売の伸び代を大きくし、農民も副業で商売をして副収入があり、農家の二男三男が江戸や大都市に出て長屋に住んで振り売り商になることもできました。幕府や藩は寺社や堤を普請する公共事業を盛んに行い、大奥も花街も庶民も大いに消費し、貨幣価値が下がって物価が上がっても所得が増えたため江戸っ子は「宵越しの銭は持たない」と嘯いていました。歌舞伎・人形浄瑠璃・小説・浮世絵なども取り締まられることなく、大いに消費されて隆盛しました。
 逆に朱子学者の室鳩巣(享保)・松平定信(寛政)・水野忠邦(天保)が実権を握って文化を取り締まった三大改革時代は不景気でした。貨幣を純金に近くしたため流通量が減り、風紀を糺すとして文化を規制したため活気が失せて商売もしにくくなり、実入りが少なくなれば消費も減ってますます不況が加速しました。農民が副収入を得ることも大都市へ流出することも規制されたため、農村で嬰児殺しが多くなって人口も減りました。全国的に一揆や打ちこわしが多くなり、幕末・天保不況時の最大の打ちこわしが陽明学徒・大塩中斎による大塩の乱であり、これが幕府の倒れる遠因となったようです。
 とはいえ一国自給が成立していた江戸期は大した動乱が起こらなかったことを考えれば、鎖国こそが平和の条件であると分かります。通商によって国外から食料を調達できないと飢饉が続けば飢え死ぬ人が増えると反論されますが、藩主が名君であれば救荒作物で備えたり米蔵解放で農民を救ったりでき、また江戸や大坂が余剰人口を吸収することもできました。ケンペルが訴えたように「鎖国」の価値を見直さなければいけない時期に来ているように思います。現代でも世界各国が鎖国すれば世界は一気に平和になるでしょう。上記したように、金融政策(貨幣流通量増加)や財政政策(公共事業)が上手くいくのはグローバル経済から隔絶されていることが条件です。食料とエネルギーの自給さえできれば、そして国境線を守りきれば現代でも通商を最小限に抑える準鎖国政策は成り立ちます。『里山資本主義』(藻谷浩介・NHK広島取材班)がそのヒントになると思います(時事楽論でも高森師範が紹介)。よしりん師範が「これから3年間は希望の期間となる」「活性化の形は地域によって異なる」「森林は宝の山」と言われた意味も、老人がカネを抱えたまま漂流する無縁社会の克服のし方もここにあるような気がします。TPP21分野が牙をむけばこれも厳しいのですが。

 余裕のある方はぜひ読んでみてください na85

No.87 136ヶ月前

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