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 私も先週に、今までの生涯で最も完成度の高い悪夢(グロい映像が出続けるのではなく、「あっ、これを注視していたら自分は発狂するな、そのためだけに作られた映像だ」とずっと実感させられるタイプの)を見たので、冒頭部の描写も面白かったです(笑)


『叛逆〜』を初めて観た時、最後に表示される国連での抗議行動の人数が「アビー・リンカーンとマヤ・アンジェロウほか60人」と書かれていたので、アビーとマヤ以外の数が60人? それとも全員合わせてだいたい60人ってことなのかな? と微妙な人数表記に違和を覚えた程度だったのですが、あれマックス・ローチも参加してたんですね(笑) 演奏で遠方にいたため参加できなかったとばかり思っていました。
 それを踏まえて当該場面を観直してみると、ルムンバ殺害への(肉声による)プロテストの主体であるアビーをマックスのドラムス演奏が援護しているかのような様相になっています。先述の字幕も含め、なぜグリモンプレ監督がこのような演出にしたかは、

① 『We Insist!』の音源を映画末部の流れにあわせるには、ヴォーカリストであるアビーの記名性だけを強めるのが望ましかったから(ドキュメンタリー内の作劇上の要請)
② 「革命は女性によって先導されるものであり、我々男どもは武器を携えてその後ろに従わせていただくだけ」というフランス直系の女性理想化(=ミソジニー)に感染していたから(無意識の為せる業)

 のいずれかに大別できそうですが、実際はこれらのどちらでもなく、「このドキュメンタリー映画内で器楽家はその演奏にのみ徹してもらうべきで、声での主張を担うのは演奏家以外の政治家や活動家であるべきだ」というレギュレーションがアビーとマックスの両人も適用され、ヴォーカリストかつ女優という立ち位置の前者は「主張」の行為者として最適で・後者は映画本編がずっとそうであったようにサウンドトラックの演奏にのみ徹してもらう。と役割が分担され、その結果としてマックスが「(文字通り)太鼓持ち」のように見えてしまったのだと私は思っています。
 と同時に、『叛逆〜』ラストの「アビーとマヤその他60人」による抗議行動は、2020年代現在における「見習うべき先例」として受け取るには難しく・本編でもそのように扱われてはいないとも思いました。というのは、これはあくまでアメリカ合衆国内のアフロ系人の反応であって、それを2020年代現在の状況と引き比べるとき、「自国内の人種差別問題すらろくに解決できず・解決する気もないアメリカ合衆国が、大真面目に他のアフリカ国内での "問題" を憂慮してみせる傲慢さ」のほうが浮き彫りになるからです。USA自体がCIAを使って多くのアフリカ国家に何をしでかしたかすら忘れたか? という目を向けられながら自国内の問題すらどうにもできない(とくにオバマ以降の)USA市民が、「汎アフリカ主義」なんて仮初にも口にするんじゃねえよ。という批判のほうがよっぽど今日的であり、その「アフロ代表者」の正当性の乖離が60年代初頭から現在にいたるまでの間に取り返しがつかないほど進行してしまった。という現状を浮き彫りにするための演出であったように思います。
『叛逆〜』のラストではルムンバ殺害への抗議行動が世界中で(日本ですら)起こっていた様子が映されますが、これを「アビー・リンカーンの叫びが世界を動かした!!」と見るのはあまりにも呑気で、むしろ「アフリカ諸国の "問題" 解決を先導するのはUSA以外の国でなくてはならない」という自然な批判的視座がグリモンプレ監督にはあり、アビーの絶叫は今日にいたるアフロアメリカン活動家の実効性の微弱化を告げる、一種の断末魔のように作用しているように思います。が、デモに参加する女性を「ジャンヌ・ダルク」呼ばわりするようなフランス流リベラリズムと抱き合わせの夜郎自大(ミソジニーはその部分的な表出でしかない)を疑いもしない類の人間は、あの姿からも無批判にカタルシスを得てしまうのかも、と思いました。

 菊地さんと大谷さんがDOMMUNEで指摘していらしたカザルスの件ですが、あれの前奏として Siegfried Müller というかなり完成度の高いクズが「レオポルドヴィルにいたとき、オレはよく Goethe-Institut を訪れたよ。ピアノコンサートをやってた、オレはただクロを殺りにきただけの男じゃないんだって思えたよ」と言いますが、その直後にチェロ演奏がきて、私はこのくだりを初めて観たとき「カザルスの『鳥の歌』だよね? この演奏って60年代だったか? ていうか、こんなに都合よく60-61年に色々揃うことあるっけ?」と軽く混乱しました(註:ソニーから出ている『鳥の歌』の演奏日時とロケーションは1961年11月13日 ワシントンDC、ホワイトハウス)。しかし実質は(菊地さんの寄稿が収録されているパンフレットはまだ参照できていませんが)、あの映像の『鳥の歌』はコンゴ動乱と同時系列ではなく、さらに直前の Müller が話していた「ピアノコンサート」が行われた Goethe-Institut での演奏ですらないという、ちょっと笑ってしまいそうな複層性が仕込まれていたのでした。

 前段落で立てられた場面の要素をまとめると、

時:アフリカの動乱からヴェトナム戦争終結あたりまで(1959-1976年頃)
場:西欧および北米の白人たちが「文化性」を享受するための場(国連とGoethe-Institut が同類項で結ばれている)
役者:自身が正当化している残虐行為を棚上げにして「文化」の素晴らしさに浸る人々(国連に集まる政治家と Müller のような傭兵が同類項で結ばれている)

 のようになっていて、その中で平和の音楽を演奏しているはずのカザルスが Müller のようなクズにその音楽を消費されている(それもカタルーニャ民謡であるはずの『鳥の歌』が、西欧の素晴らしいクラシック音楽だと錯誤されるかのようにして)ことになり、ここまでスゴくてキツい編集を見せられるともう称賛するしかありません。ちなみに「このような機会をいただけて光栄です、音楽が国際語であることを教えてくれる優れたアーティストを紹介できるとは」というスピーチがカザルス登場の前に据えられているのですが、西欧クラシック音楽に詳しくない私は「こいつカラヤンかな? Goethe-Institut だからナチ野郎が仕切っててもおかしくないだろう」と反射的に思ってしまいました(実際は国連での演奏なのに笑)。
 以上、一連の演出を踏まえると、「ナチ野郎とまでは言わずとも白人による世界主導の優越性を疑わない輩に、カタルーニャ人であるカザルスが演奏を要請され、 "平和の歌" を演奏するも、 Müller のようなクズからは "おお、オレはこの音楽のよさがわかるぜ。だってオレは文化的だからな、ただクロを殺しにきただけの男じゃねえんだ。やっぱ音楽って素晴らしいぜ" という具合に消費されている。さらにその裏では、ハマーショルドを始末する計画が刻々と進んでいる」場面が成立してしまっており、これはブニュエルの劇映画でもやれないほどキツい内容です。

 このように、「平和の歌」の「名演」にここまでキツい待遇を与えているグリモンプレ監督が、アビーとマックスの行動に「やっぱりこの時期のアフロアメリカンってすごかったよね」式の呑気な理想化に基づく称揚をするわけがないのでしょう。私は20世紀の西欧のなかでスペインが一番好きですし(とくに社会主義者側が殺されまくる側に立って・現在でも社会主義政党が元気に生きているところが)、その内部におけるマイノリティであるカザルスのような立場の人々にも配慮されるべきだと思いますが、「祖国を追われて国連みたいなとこに匿われた音楽家が "平和の歌" そのものを搾取されてしまう」という場面を(死後の笑)カザルスに与えるのは、ダンテくらい豪胆な価値判断がないとできないはずで、その結果として獲得された『叛逆〜』の多くの場面での複層性は、何度観直しても驚くべきものです。
 あと、検索だけして知ったのですが、カザルスは国連への無批判な称賛のみならずイスラエルとも仲良く「文化事業」に携わっていたようなので、私もカザルスは煉獄もしくは地獄行きでいいやと思っています(笑)

No.1 1ヶ月前
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  • 「菊地成孔のアンダーグラウンドX (26/8/9=No.54)」

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