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「〈そのときのプロデュース対象〉に萌えない事」は、菊地さんが繰り返し述べてこられた倫理のようなもので、私も折に触れて(とくに大西順子さんの『Tea Times』プロデュース時の記述を)日常的に読み返すほど今日的な重要さが増してきていると思います。2006年時点でのユリイカ特集でも、菊地さんは「萌え」について「非常に皮下反射化した欲望」と述べておられましたね。
 これを、直近のXで繰り返し強調しておられた「本当に遊んでいる国民がひとりもいない」問題系と合わせると、エクスタシー隠蔽のために前衛に置いておくための「萌え」がむしろ人質に取られ、「推し活」という「国民的行事」への動員が徴兵めいた義務になり、そこでの「(本当の)遊び」と「(義務履行という)楽しみ」の取り違えが「本当に遊んでいる国民がひとりもいない」現象を定着させた、というふうに私は読みたくなりました。
(もっとも、2006年時点で展開されていた菊地さんの「萌え」見は時間を経て修正されていても不思議ではなく、私自身も「萌え」はエクスタシーの真逆というよりもむしろ、フロイト派の用語でいえば「前性器期」に留まり続けたい成人たちの社会コード化された欲望の外装のように感じられます。特にこれは、未成年者をプロデュースするにあたって「萌え」外装=「前性器期」的であり具体的なリビドーの充足が不可能であること はペドファイル者を遠ざけておくための対策になりうるのか、むしろ逆効果なのか。についても知りたく思います。)
 
 もちろんコドモスパンクハッピーは、前段落で書いたようなものとは別の方法で芸能にかかわる未成年者を護った企画だったと思います。同時にそれは、(私はコドモスパンクハッピーを映像でしか見ていませんが)ダンスを「キレッキレ」礼賛から切り離したという意味でも素晴らしかったです。私はこの表現の「ッ」あたりがもたらすニュアンスが本当に大嫌いなのですが(最近YouTubeのコメント欄で確認しましたが、今この表現はダンサーのみならずテクニカルなドラマーを賞賛するためにも使われはじめています)、ダーリンsaekoさんのコレオグラフには脱力と優雅さが常に伴っていて(アフロキューバン音楽が基礎にある振付師だから。ということも大きいのかもしれません)、ほとんど義務化した「キ(略)」から未成年者のダンスを解放するものですらあったと思います。

「本当に遊んでいる国民がひとりもいない」問題系は、ダンスにおいてほとんど義務化した「キ(略)」がもたらす構造的疲弊とも関係があり、その結果として現在では"推しがどれだけ頑張っても/推しをどれだけ賞賛しても、「遊び」からますます遠ざかっていく"状態が定着したのかもと思います。新音楽制作工房のカバー集とコドモスパンクハッピーのダンスは、その疲弊を柔らげてファシズム動員状態から遠ざけるという、正しく整体的・もしくはエクソシズム的試みだったと考えたくなります。

No.1 5ヶ月前
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