『刑事コロンボ研究 上巻』は、(以前に別のコメントでも書きましたが)“本書の最終目的は〔中略〕あらゆる全てのジャンルと交易を結ぶ事にある” と宣言される箇所の清々しさと、 “文体を、一読するに強くポテンシャルを感じさせるものに設定したのは、敢えての逆効果を意図したものでーす” と批評権威なるものをリセットするくだりがとくに素晴らしかったです。とくに後者は、大谷能生さんとの共著を出すたびに権威主義者からの自白的憤激を招いていた菊地さんによる、批評文体ポテンツそのものへの批評のようにも読めました。 「ポルフィーリーがコロンボの元ネタ(ではない)」検証のくだりも、前提としてまかり通っている周知事項の問い直し=批評の本分としてとても強固に書かれていたと思います。というかこの件は私個人にとっても痛くて、私は20歳前半の頃ロシア文学耽溺者だったのですが(うわあ)、そこで Wikipedia 程度の知識で「コロンボってのはポルフィーリーなんだぞう」的に思ったり書いたりした時期があった、というか菊地さんの御著書を拝読するまでそのままでした。 じつは今年の春(貴著が出版される直前)に引っ越しのため蔵書を片付けたのですが、そのときドストエフスキーの文庫本全部を処分し(笑)、さらには貴著で(江川卓がポルフィーリー=コロンボ節を唱えていない証拠として)取り上げられていた『謎とき 罪と罰』も一緒に捨てていました(慄笑)。これは精神分析的に考えれば、私は菊地さんのコロンボ研究書出版告知に由来する予期不安によって部屋の中にある後ろめたいものを処分する必要に迫られていた、としか言いようがありません(笑) 『別れのワイン』でいえば、ボトルを岩礁に投棄するシーンに相当しますね。 (ちなみに、日本のロシア文学愛好者には「『カラマーゾフの兄弟』ってのは内容から考えてもおかしいだろ。『カラマーゾフ兄弟』に邦題を統一しろよ今からでも」と主張するセクトがあり、私も一時期その一員でした) 「ポルフィーリーがコロンボの元ネタ(ではない)」検証のくだりは、TV連作の探偵シリーズ=コロンボと既に古典入りしたロシア文学=ドストエフスキー長編、これらふたつの間で異なるファンダムにより異なる株価が設定されていたことの喝破がとても面白く、かつそのようなペダントに傾いていた身からすれば痛い話でした。 菊地さんは、以前『ララランド』の追補で「ヘタウマにも階級がある」ことを明らかにしてもおられましたが、このように作品そのもののみならずそれを珍重する人々の心的経済論についても言及できる明察は、他に得難いものだと思います。その文を読んだあとで作品への態度が(権威や暴力によるシャクティパットではなく、精神分析的に簡明な指摘によって)変わることが批評の価値だとすれば、菊地さんのコロンボ評以上のものはないでしょう。上巻末に収録されていた2話ぶんの批評だけで長さは全く感じられないほど面白かったので、下巻の出版も心待ちにしております。
「ポップ・アナリーゼ」の公開授業(動画)、エッセイ(グルメと映画)、日記「菊地成孔の一週間」など、さまざまなコンテンツがアップロードされる「ビュロ菊だより」は、不定期更新です。
音楽家/文筆家/音楽講師 ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。
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『刑事コロンボ研究 上巻』は、(以前に別のコメントでも書きましたが)“本書の最終目的は〔中略〕あらゆる全てのジャンルと交易を結ぶ事にある” と宣言される箇所の清々しさと、 “文体を、一読するに強くポテンシャルを感じさせるものに設定したのは、敢えての逆効果を意図したものでーす” と批評権威なるものをリセットするくだりがとくに素晴らしかったです。とくに後者は、大谷能生さんとの共著を出すたびに権威主義者からの自白的憤激を招いていた菊地さんによる、批評文体ポテンツそのものへの批評のようにも読めました。
「ポルフィーリーがコロンボの元ネタ(ではない)」検証のくだりも、前提としてまかり通っている周知事項の問い直し=批評の本分としてとても強固に書かれていたと思います。というかこの件は私個人にとっても痛くて、私は20歳前半の頃ロシア文学耽溺者だったのですが(うわあ)、そこで Wikipedia 程度の知識で「コロンボってのはポルフィーリーなんだぞう」的に思ったり書いたりした時期があった、というか菊地さんの御著書を拝読するまでそのままでした。
じつは今年の春(貴著が出版される直前)に引っ越しのため蔵書を片付けたのですが、そのときドストエフスキーの文庫本全部を処分し(笑)、さらには貴著で(江川卓がポルフィーリー=コロンボ節を唱えていない証拠として)取り上げられていた『謎とき 罪と罰』も一緒に捨てていました(慄笑)。これは精神分析的に考えれば、私は菊地さんのコロンボ研究書出版告知に由来する予期不安によって部屋の中にある後ろめたいものを処分する必要に迫られていた、としか言いようがありません(笑) 『別れのワイン』でいえば、ボトルを岩礁に投棄するシーンに相当しますね。
(ちなみに、日本のロシア文学愛好者には「『カラマーゾフの兄弟』ってのは内容から考えてもおかしいだろ。『カラマーゾフ兄弟』に邦題を統一しろよ今からでも」と主張するセクトがあり、私も一時期その一員でした)
「ポルフィーリーがコロンボの元ネタ(ではない)」検証のくだりは、TV連作の探偵シリーズ=コロンボと既に古典入りしたロシア文学=ドストエフスキー長編、これらふたつの間で異なるファンダムにより異なる株価が設定されていたことの喝破がとても面白く、かつそのようなペダントに傾いていた身からすれば痛い話でした。
菊地さんは、以前『ララランド』の追補で「ヘタウマにも階級がある」ことを明らかにしてもおられましたが、このように作品そのもののみならずそれを珍重する人々の心的経済論についても言及できる明察は、他に得難いものだと思います。その文を読んだあとで作品への態度が(権威や暴力によるシャクティパットではなく、精神分析的に簡明な指摘によって)変わることが批評の価値だとすれば、菊地さんのコロンボ評以上のものはないでしょう。上巻末に収録されていた2話ぶんの批評だけで長さは全く感じられないほど面白かったので、下巻の出版も心待ちにしております。