前段落の内容にこじつけるようですが、ここ数日でスライ・ストーンとブライアン・ウィルソンという、「自家ラボ籠り系の音楽的天才USA人」が相次いで亡くなりましたね。この2人に共通する「狂気」は、スライのそれが薬物ブーストの妄想症的だったのに対しブライアンは精神病としての診断を受けていたので同列に扱われるべきではないと解ってはいますが、6月前半が双子座の季節ということもあり、やはり因果めいたものを感じてしまいます。
この2人を改めて並べて思うのは、2020年代の今でさえまだ20世紀的な「天才」の解像度は粗いままであり、それが(主にソーシャルメディア上における)彼らへの追悼のありかたにも直接あらわれているように思います。スライ没に事寄せて「まさに今こそ There's a Riot Goin' On だぜちくしょう」なんて言っているファンがいたとしたら、一番キツい例でしょう。むしろスライに関しては、彼が人種混交編成を採っていたばかりにブラックパンサーパーティから脅されていたという、「ウッドストックあたりのUSAにおける混血カルチャーの根付き難さ」のほうが今日的な教材になると思います。そしてブライアン・ウィルソンを題材とした(劇映画・ドキュメンタリー含む)映像作品がメジャー制作で数多く流通しているのに対し/スライのそれはインディー規模のドキュメンタリーですら驚くほど少ないという対照も、この「USA市民が直視したくない問題系」の在処を逆説的に物語っているように思います。
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今回の日記を拝読して、およそ20年前あたりから定着した「個人による制作」の、映画と音楽それぞれ異なる分野からの回想が同時に展開されているように思われました。菊地さんは(現在では当たり前となった)個人での「映画」制作を早すぎるタイミングから実行しておられ/その一方で同時系列のMIDIには不適応であった、バイウェイの「早さ」と「遅さ」があり、それら両方の分野を現在では別の形で再獲得しておられる(前者はフィルモラ使用の映像制作/後者は新音楽制作工房での音楽制作)のかなと。
前段落の内容にこじつけるようですが、ここ数日でスライ・ストーンとブライアン・ウィルソンという、「自家ラボ籠り系の音楽的天才USA人」が相次いで亡くなりましたね。この2人に共通する「狂気」は、スライのそれが薬物ブーストの妄想症的だったのに対しブライアンは精神病としての診断を受けていたので同列に扱われるべきではないと解ってはいますが、6月前半が双子座の季節ということもあり、やはり因果めいたものを感じてしまいます。
この2人を改めて並べて思うのは、2020年代の今でさえまだ20世紀的な「天才」の解像度は粗いままであり、それが(主にソーシャルメディア上における)彼らへの追悼のありかたにも直接あらわれているように思います。スライ没に事寄せて「まさに今こそ There's a Riot Goin' On だぜちくしょう」なんて言っているファンがいたとしたら、一番キツい例でしょう。むしろスライに関しては、彼が人種混交編成を採っていたばかりにブラックパンサーパーティから脅されていたという、「ウッドストックあたりのUSAにおける混血カルチャーの根付き難さ」のほうが今日的な教材になると思います。そしてブライアン・ウィルソンを題材とした(劇映画・ドキュメンタリー含む)映像作品がメジャー制作で数多く流通しているのに対し/スライのそれはインディー規模のドキュメンタリーですら驚くほど少ないという対照も、この「USA市民が直視したくない問題系」の在処を逆説的に物語っているように思います。
いずれにしろ、LA火災の最中にデヴィッド・リンチが没した時とは全く別のかたちで、20世紀USA的な「個人と時代のありかたが直結してしまう現象=天才」の問題系が、すごい早さで手付かずのまま精算されているようです。前回の日記でもふれられていた「21世紀音楽の脱調性性」を個人の才能と病のバイウェイで先告していたようなブライアン・ウィルソンの死も含め、それらを「巨星墜つ」などという(文字通り20世紀的な)紋切りの表現で済ませる気にならないのは、ある文化的な側面が解離されたまま・別のエンジンだけがものすごい勢いで駆動しているローリングトゥエンティーズの只中に生きているからなのかもしれません。
連想を長々と書いてしまいましたが、数日後の菊地さんの御誕生日前後に何か(悪い意味で)ヤバい引き込みが無いよう願っております。