短期間に動画を6本も作ったので楽しくなりすぎて疲れたのかも知れない。2本目(コロンボ本のPV-2JUMAQNが主演の奴)の撮影が終わり、編集しているうちに熱が出てきてコロナだったという話だ(なんか遠い過去のような気がする。ほんのちょっと前なのに。あのコロナは夢だったのかな、と思う。静養中、ほとんど乖離していたので)。

 

 これだけは仕事にしたくないし、そもそも仕事になるわけがない。と思っていたのが映画作りだ。音楽家が映画が好きで、周りに乗せられて映画を作ってしまうことがある。それは冷笑すらできない、文化的な虐殺と呪い、罪深さの歴史だ。ジェノサイドには関わりたくない。

 

 ただ僕はハンディカム世代として、多分日本で一番早く、あらゆるプライヴェートを撮影していた。30歳の誕生日をベルギーのアントワープで迎えた時は、「肩に担ぐ」大きさ最後の世代の番機を担いで、ほぼ24時間撮影していたので、ベルギー人にも、ドイツ人にもフランス人にも、旧ユーゴスラヴィア人には特に、「あら、カメラマンのあなたね笑。おはよう今日も撮影ご苦労様」と言われた。僕は旅先の食事を、一食残らず全て撮影し、投宿したホテルの隅から隅までを撮影した。海外渡航の80%が楽旅だったので、ライブも全て録画した。

 

 それは、当時は相当な変わりモンで、ベルギー人も、ドイツ人もフランス人もイタリア人も、旧ユーゴスラヴィア人は特に僕を揶揄った(とても友愛のこもった態度で。僕は何故か欧州人に物凄く好かれるので、自己実現ができずに苦しむような人生だったら、今頃パリに住んでいると思う、とゾッとする)、「カメラマン。今日は戦争はないぞ」といった感じで。そして僕は我ながら律儀に「やがて誰もがこうなる」と答えていた。「お前もなるよ」と。

 

 ざっと32年前の話だ。肩に担ぐhi-8時代から、今のスマホとさして変わらないサイズのハンディカムの時代が来ると、撮影量は10倍化した。「家庭用テクノロジーの定着はポルノから」などと言うし、そういう恩恵にも預からなくもなかったけれども、何せ僕は映画を撮っていたのだ。部屋、建物、道路、店内、空、人々、生活、世界の全ては、眼球で見るよりも、モニター越しの方が遥かにスタイリッシュで、歪で、美しかった。眼球で世界を見るのは、なんというか、一番しらける行為だった。