田畑 佑樹 のコメント


 私事がやや立て込んだため配達日を遅らせておりましたが、昨晩『天使乃恥部』限定パッケージ版をようやく拝受いたしました。菊地さんにおかれましては、数年またぎでこの作品にたどり着かれるまでに多難があったと存じます。いちファンとしては、秋にこのような成果物が届くこと自体が嬉しくてなりません。秋は友愛と分け合いのバイブスが自然に共有される季節のように思われ、その時期に出会った音楽も自分にとって特別な意味を持つことが今までの人生で多くありました。今夜あたりからUSBの内容と、初心者として香水の使い方も恐る恐る学んでゆこうと思います。

 ところで若干時期遅れの話題ですが、菊地さんが以前より熱心にご紹介なさっていた『憐れみの3章 (Kinds of Kindness)』(←の邦題から「の」を除いたうえで総カタカナ化してみたら、『アワレミサンショウ』と絶妙に開票後速報っぽい響きになり、さらに字面としてはソロ活動を開始した直後の堂本剛さんの楽曲名っぽくさえあったので、完全に過去のものとなったはずの「まだ21世紀ではない2000年代」っぷりを眼前に嗅いだような気がしてちょっと懐かしくなりましたが)、先日にようやく観ることができました。原理的に「ネタバレ」なるものが成立しようもない質の映画ですので(実際、自分は英語版 Wikipedia であらすじを読んだ数週間後に観ましたが、映画そのものがもたらす面白さは1秒たりとも途切れませんでした)、こちらの公開コメント欄に #哀れみの3章どうだった #菊地と一緒に踏み絵踏みませんか の感想を書かせていただきたく思います。(ただ、菊地さんご本人がお書きになっていた “知ってる人全員に感想が聞きたいよ” のお言葉に甘えすぎたのか、いつも以上に多い段落数になってしまいました。)

 鑑賞前の自分の関心は、古代ギリシア劇における「神託」(←敢えて『マクベス』に準えるなら「魔女の予言」)の要素が、現代劇たるランティモスの映画内でどのように使われているのか/いないのかについてだったのですが、第1〜2章に関しては「神託」よりもむしろ「謂れ《ドグマ》」についての劇だったように思われました。ドグマは現代において専ら罵倒語としてのみ使われますが、たとえば我々が物を買うときに消費税を課され・それを不思議に思わないことも立派な「謂れ《ドグマ》」の効果であり、それ無しで人間世界は成立しないわけです。
 第1〜2章は、その世界で前提とされる「謂れ《ドグマ》」が全く疑問に曝されないまま、世界内の登場人物たちが運命(というか、一定の審問)をひたすら受動してゆく骨子で進み、その結末として用意されているのが「(運命に従った果ての)愛の勝利」だという、中々物凄い造りでした。とくに第2章は「逆オデッセイ」とでも呼ばれうる内容だったので、「色々あったけど、最終的に愛が然るべき所に戻ったし、その最中で解決された問題もあったといえばあった」というジョイス『ユリシーズ』までのギリシア劇現代翻案の系譜を丁寧に踏んでいるようにさえ思われました。

(ところで、「逆オデッセイ」の構造を持つものの私はあまり好きでない映画として『ゴーン・ガール』があるのですが、これと同様の「ものすごく知性的な女性が男性に対し罠のような試練を仕掛ける」という仕立てを『憐れみの3章』第2章はギリギリのところで避けていると思いました。言うまでもなく先述の仕立ては「女性の知性」を「怪物的存在」に近づけてしまう意味でフェミニズム的に落第点ですが、『憐れみの3章』には「神託」と「謂れ」の構造が中枢に据えられているので、その内部で振り回される男女の立ち位置に関し優劣や主従の階級が無化されていたわけです。)

 が、最も知的興奮を掻き立てられたのは第3章でした。この章だけは「愛の勝利」というより、「然るべき存在が然るべく屠られて終わる」という、正調のギリシア悲劇(←そもそも語源は「山羊の歌」)に則っていたからです。「神託」によって屠られるべく定められた存在が屠られ、奇跡を顕現させた当事者までもが屠られた瞬間(←もっとキリスト教に寄せて喩えるなら、「ようやく見つけた聖杯を落としてしまい、砕け散ったのを見た瞬間」)に映画が終わるという切れの良さにも感銘を受けましたし、予告編公開の段階で大いにウケていたエマ・ストーンのダンスシーンも、本編の流れであれが来ると「良かったね! 良かったねえ!!」と喝采したくさえなってしまい、私自身そのことに一番驚かされました(予告編の段階では、ずいぶん前から増えはじめた「とりあえず踊っとけばいいだろ」系映画だとばかり思っていたので)。

(ところで、「人間は自由意志に基づいて行動しているのではなく、神託によって定められた運命に逆らえない」とはフロイトが一貫して追究したテーマでもあり、この「神託」が自我を飲み込む型のモデルは最後まで揺らがなかったと思います。大戦後の外傷性神経症に直面して修正を強いられた際にも、「神託」に従っていることすら知覚できず奇怪な行動を繰り返す人間の容態を分析に据え続けたのであって、ただ「死の欲動」という徒にキャッチーなコピーのみを掴まれて誤読の余地が増幅しただけだったのでしょう。人間が定めた「謂れ《ドグマ》」は「神託」の余波または残響にすぎず、それは世俗国家内の法律ですら例外ではなく、その影響下において人間は行ったり来たり正気付いたり狂ったりする。というのはフロイトのみならずカフカも含めた19-20世紀的ユダヤの知そのもので、ギリシアの出自を持つランティモスが精神分析と現代文学双方の源流でもある構造を劇映画として取り出して見せた手筋の確かさについては、どれほど嘆賞しても足りません。敢えて雑駁に簡略化すれば ギリシア劇(とくに『オイディプス王』)→シェイクスピア劇(とくに『マクベス』)→精神分析(とくに『快楽原則の彼岸』または『モーセと一神教』)の線に連なるのがこの映画であり、そう前提すると最後に流れる楽曲のタイトルが『King Lear』だったのは「照れ隠しのネタバラし」なのか「全く無関係」なのか、どちらに解釈すべきか悩むところです。もちろん最も豊かな答は「どちらでもある」でしょうが。)

(ふたたびところで、『憐れみの3章』に関して「支配と服従」の非対称な関係を持ち出す批評がやたらと多いのですが、最も支配的な搾取者として認定できそうな第1&3章のウィレム・デフォーでさえ自分に降りかかった「神託」に服従した結果としてああいうことをやっている━━他人を支配しうる「謂れ《ドグマ》」を設定するに至った━━のみであって、『憐れみの3章』の登場人物たちは全員「神託」に服従し・「謂れ《ドグマ》」に搾取されている意味において平等だと思います。インチキ宗教を設定したデフォーですら「神託」の余波として「この教えを広めなきゃ」の使命に駆り立てられているだけで、他の信者と同じように彼も自分で設定したインチキ宗教に搾取され続けているわけです。これは私が『自我とエス』(←初めてこの本を読んだとき、「個人の内部で日夜繰り広げられている熾烈なSMプレイ」についての分析だと思いました)を念頭に人間の欲望を考えすぎているだけかもしれませんが、少なくとも現時点での『憐れみの3章』世評においては、「登場人物が色々な神々の役割を帯びて登場する」型のユング的思考と/「本物の神が眼に視えるわけがなく、もし形をもった神がいるとしたらそれは人間が勝手に設定した偶像すぎない。そしてあらゆる人間は知覚され得ない意識によって自分自身を搾取している」というフロイト的思考の2パターンが流通しており、前者が圧倒的優勢であることを記録しておきたく思います。これはギリシアでもヒンドゥーでも神仙でも北欧でも人型の神を出しまくって楽しむハリ&ボリウッド+香港式の娯楽が圧倒的優勢である現状の必然的帰結ですが、しかし『憐れみの3章』の作劇はそのような多神=ユング=ディズニー的? 前提自体を外しており、ハリ&ボリウッド+香港式娯楽のマナーではまともに起動すらしない映画なのかもしれない。ここにこそ『憐れみの3章』の、文字通りリアルタイムの枠を超越した凄みがあると私は思います。)

 この段落で書くのは最も表層的なことですが、あらゆる登場人物たちが、菊地さんもお書きになっていた「もう欲情してはいけないんだ」の道徳を前提に扱われていたのも特異でした。エマ・ストーンの顔(のみならず全体)が金魚のように見え続ける映画なんて初めてです。同性愛テーマが扱われているときですら一切萌えさせない(←これを『マルホランド・ドライブ』『ブロークバック・マウンテン』『アデル、ブルーは熱い色』『裏切りのサーカス』などの「実は同性愛です」系映画からうまみを得たがる客層が密かに群がっていた時代と比較すると、隔世の感が凄い。本当に高いジェンダー意識とは『憐れみの3章』のような態度を指すのでしょう。「同性愛だからといって萌え(させ)ちゃいけないんだ」なんて当たり前の道徳観のように思えますが、それをここまで冷たく徹底させたのはファスビンダー以来ではないかとすら評したくなってしまいます)。
 そして私が最も凄いと思ったのは、この映画には「すごく良かったから二次創作しちゃお」という欲望を掻き立てる余地すら無いということです。ジョイスの『ユリシーズ』やカフカの小説にさえ、二次創作可能な余地は僅かながら残されています。加えて、ここ数年では「途中で映画の顔がいきなり変わる」という『サイコ』→『デス・プルーフ』→『パワー・オブ・ザ・ドッグ』あたりの線がふたたび好評を博しましたが、それにすら頼らない乾いた作劇をギリシア劇由来でやれてしまうとは、既存の「ハリウッド的脚本術」の右派も左派も予想すらできなかったことでしょう。
(余談ながら、先に引いた『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、監督が「見目麗しい男たちが西部劇的世界で生きる様子」に萌えてしまった感が露骨に伝わりすぎて、少なくとも私は新しさを楽しむことができませんでした。あれの数年後に『憐れみの3章』のような作品が出てくるとは、映画界における20世紀清算ぶりも凄まじい勢いで進んでいるのかもしれません。)

 そしてギリシア劇といえば合唱隊《コロス》ですが、前もって Jerskin Fendrix によるOSTを繰り返し聴いてから観ただけに、あのギリシア語?(だとしても古代語なのか現代語なのか解らない)で唄われている詞の内容はどうしても知りたいと思わされました。あれら Hymn のバリエーション自体、そもそも多神教時代のギリシアに由来するものなのか、それともキリスト教の合唱様式か、だとすれば正教なのかそれ以外の何かか、と資料無しでは判断すら付きかねる一方、単品の音楽作品としては文句なしに素晴らしいものでした。菊地さんはあの Hymn バリエーションの宗教音楽的ルーツをどのあたりに特定されましたか?

 Hymn バリエーションの中で私は『Matia Ponos Stoma Fthonos 1』が特に好きで、この主旋律を自分の中で繰り返しているとなぜか途中でマイク・オールドフィールドの『Ommadawn Pt.1』になってしまうのが困……いやべつに困らないのですが(笑)、しかしオールドフィールドからトレント・レズナーにいたるまでの、20世紀的「映画音楽もやるようになりました系メジャーミュージシャン」には必ず備わっていた「ミニマル=ループ」感が、 Jerskin の作曲にはほとんど含まれないように思われました。「繰り返し再生される前提」の曲というよりは、「一方向に進むものの、その楽曲に包含されている時間自体が線になったり円になったりする」音楽、という印象です。
 Jerskin はケンブリッジでクラシック音楽を専攻したそうです(というかケンブリッジに音楽科が在るのかどうかすら私は知らないのです)が、彼が現在やっている Famous というプロジェクトは Swans のマイケル・ジラのソロ作あたりに近い音像であり、それ以前に発表された Jerskin 自身のソロ作も『憐れみの3章』OSTとは異なる作風でした。むしろ今作ではビートや複層的な装飾音を排し、ピアノと人声を主とする編曲に削ぎ落としたのが素晴らしい慧眼だったと思います(その方針の設定が彼自身によるのか映画制作側によるのかは解りませんが)。

 以上、興奮に任せて書き並べてしまいましたが、菊地さんは Jerskin によるOSTをどのようにお聴きになりましたか? とくにサウンドトラックを聴き込んだうえで観ると、OSTでは同一トラックに含まれている音が異なる章でも再現(というか、前後の章に同じく配置?)されているようでした。劇伴の内容そのものと同様に「貼り」の作業も重要な映画なのかもしれず、その工程も含めた菊地さんの分析と評価をお聞かせ願いたく思います。
 さらに、いやしんぼめいて付け足しますが(笑)、映画の評価に関し「どれほど夢に似ているか」を重んじておられる菊地さんにとって、『憐れみの3章』の「夢性」がどのように映ったか、についてもぜひ知りたく思います。

No.1 4日前

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